第42回受賞作
「『杉田久女句集』を読む――ガイノクリティックスの視点から」
岡田一実

 

Ⅰ はじめに

谺して山ほととぎすほしいまゝ 杉田久女

俳句史を代表するこの句は、杉田久女『杉田久女句集』(石昌子編・角川書店、昭二七)に収められている。〈花衣ぬぐやまつはる紐いろ〳〵〉〈朝顔や濁り初めたる市の空〉〈紫陽花に秋冷いたる信濃かな〉など、現代でも人口に膾炙する名句が収められている句集だ。本稿では『杉田久女句集』を通読し、「女性の俳句」としてどういった作品が多く照射されてきて、どういった俳句が見落とされやすかったのかを検討したい。

Ⅱ 「台所俳句」から久女への潮流
明治時代、俳句を詠む女性は少なく、伝統的に俳句は男性の文芸とされていた。散文に関心が移り、俳句から遠ざかっていた高浜虚子は、明治末期に俳壇に復帰して、女性にも俳句を勧めようと考えた。まず、『ホトトギス』大正二年六月号に、長谷川かな女幹事のもと、婦人のみの題詠一〇句集欄を設けた。続いて、大正五年一〇月号に、「台所に関するものを題とせる句を募る」と女性に限定して募集し、同一二月から台所雑詠として入選句を発表した。並行して、第一次「ホトトギス婦人句会」も始まり、女性俳句は大きく開花していった。
当時の女性作家の作品はどう評価されたのであろうか。
長谷川かな女は明治二〇年生まれで、久女より三歳年上。婿養子として迎えられた零余子とともに俳句に励んだ。虚子が雑詠選集から精鋭を選ぶ「進むべき俳句の道」に入集した中では唯一の女性作家である。

羽子板の重きがうれし突かで立つ 長谷川かな女

虚子は、かな女の〈時鳥女はものゝ文秘めて〉〈汐上げて淋しくなりぬ澪標〉などを、「女でなければ感じ得ない情緒」とし、〈切れ凧の敵地へ落ちて鳴り止まず〉などを、非常に力強い「女と思えない句」と分類した(『ホトトギス』、大五・一〇)。

竹下しづの女も明治二〇年生まれだ。

短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか) 竹下しづの女

『ホトトギス』大正九年八月号の巻頭である。投句開始から一年半足らずの作であったが、久女・かな女と並んで称されるようになった。掲句は主に男性作家から「母親失格」「鬼のような母親」「万葉仮名を使用した知識のひけらかし」などと激しく攻撃を受けた(寺井谷子「激しく瞬時を生きて」『鑑賞 女性俳句の世界 第一巻』角川学芸出版、平二〇)。
一方で、久女は掲句を「近代思想をよめる句」と分類し、次のように記した。

乳たらずか或はひよわ児か。火の様に乳責りなく児を、短夜の母は寝もやらで、もてあまし、はてはいつそ捨つちまほうかとさへいら〳〵する母の焦慮と当惑とを、須可捨焉乎といふ言葉で現はしてゐるのは甘(うま)いと思ふ。
(杉田久女「大正女流俳句の近代的特色」『ホトトギス』、昭三・二)

しづの女の俳句の思想的大胆さや自由さを共感的に解釈しながら、冷静に技術を見極めた評である。
久女の俳句が初めて『ホトトギス』に載ったのは、大正六年、第二回目の台所雑詠欄である。

鯛を料るに俎板せまき師走かな 杉田久女

〈せまき〉という把握が鋭い。豪盛な鯛の質感や生々しい彩りが年末の慌ただしさの中に置かれ、手間の中の華やぎを表現している。のちの久女につながる原点であろう。
今日では、「台所雑詠」と標榜し、厨事に限定して女性の俳句を集めることは、固定的なジェンダー役割と性差別的な規範の押しつけであると感じられ得る。当時の多くの女性達は社会規範の圧力を引き受けながら、結婚し、出産し、「家」とケア労働に拘束され、自由を制限されていた。そうした中で、俳句創作の機会が女性に開かれたのだ。家事育児への従事から決して逸脱してはならないという周囲の監視や、自己規範の制約はあったろう。それでも、その機会は、詩心を解放した上で自作の評価も問うことのできる輝かしい希望として、彼女たちの目に映ったのではなかろうか。
また、当時、厨事や女性特有の装飾品、髪などの身体や心情、それらの関心の傾向性を「女性性」と見做す、自明の如く扱う社会構造があった。それゆえ、女性俳人の多くも、「女性性」をテーマとして重く見た。ここに「行為主体性(agency)」を見出せる。
「行為主体性(agency)」とは、社会構造に対する個人の主体性である。この概念について、社会学者の佐藤文香は、「ポスト構造主義の思想的潮流の中で、自己決定権を備えた個としての主体概念が解体された後に登場した重要な概念」と位置づけ、次のように分析する。

ミシェル・フーコーが示したように、人が主体 (subject)になるとは既存の秩序への服属 (subject to) の過程であるが、主体を言説実践に先立つものとしてではなく、言説実践の遂行により事後的に構築されたものと位置づけた上で、まったき能動性もまったき受動性も回避するために使われるようになったのがエイジェンシー概念だった。言説実践の媒体であるエイジェンシーには、既存秩序の再生産のみならず、攪乱や変革の可能性もが含意されている。
(佐藤文香「戦争と性暴力――語りの正当性をめぐって」上野千鶴子/ 蘭信三 /平井和子 編『戦争と性暴力の比較史へ向けて 』岩波書店、平三〇)。

また、同書で、三名の編者は次のように述べる。

女性史の挑戦は、無力化され犠牲者化された女性という「エイジェンシーを歴史に取り戻す (restore women’s agency to history)」実践だった。
(編者「はじめに――戦争と性暴力の比較史に向けて」同掲書)。

当時、『ホトトギス』は、男性主宰・高浜虚子が選句をし、同人や会員がそれを元に研鑽するという、序列を有したシステムであった。これは、家父長制と親和性が高い。そして、新奇の参加者たる女性の「女性性」を批評・教育するのは、男性が多いという傾向があった。久女を単なるその秩序の犠牲者としてではなく、「行為主体性」を有する人間として捉える視点が、彼女の作品を歴史的に眺めるためにも、非常に重要だと思われる。

Ⅲ 久女の代表作と評価
(1)久女の略歴
杉田久女は明治二三年、鹿児島に生まれる。沖縄、台北と転居をした後、東京女子高等師範附属お茶の水高等女学校に入学し、卒業する。明治四二年、東京上野美術学校西洋科出身の杉田宇内と結婚。宇内の中学校教師奉職のため、福岡の小倉へ移住をした。大正五年、次兄で俳人の赤堀月蟾(渡邊水巴門下)より手ほどきを受け、翌年より俳壇の主流結社であった高浜虚子主宰『ホトトギス』に投句を始める。虚子と初めて会ったのもこの時期である。大正九年、父の納骨に行き、腎臓病を患って実家に留まったのを機に、離婚問題に発展。母さよから「子どものために辛抱して、夫が俳句を嫌うのなら俳句をやめるように」と説得を受けた。大正一一年、夫婦揃って洗礼を受け、クリスチャンとなり、俳句を趣味の程度に留めていたが、大正一五年には教会から離れ、俳句に専心する気持ちを固めた。昭和六年、帝国風景院賞金賞二〇句に〈谺して山ほととぎすほしいまゝ〉で入選。昭和七年、女性作家だけの俳誌『花衣』を創刊。俳句の世界での女性の地位向上を目指すが、同年五号で廃刊する。『ホトトギス』一〇月号より同人となる。昭和八年より、句集上梓に向けて活動し、虚子の序文を要請するも希望は受け入れられなかった。昭和一一年、『ホトトギス』同人を削除される。理由は不明。昭和二〇年一〇月、福岡県立筑紫保養院に入院するも、翌昭和二一年、一月二一日に逝去。死因は、戦時下で極度に食糧事情が悪かったための栄養失調(平畑静塔説)とも、栄養慢性甲状腺炎(橋本病)(寺岡葵説)とも推測されている。享年五六歳であった。昭和二三年、虚子が「国子の手紙」(『文体』昭二三・一二)を発表する。創作と断りがあるが、主人公「国子」の手紙は実際の久女のもので、久女が相手の迷惑を顧みず支離滅裂な手紙を送りつける「をかしい」状態にあったと印象づける小説であった。これにより久女狂気説が広まった。昭和二七年、長女石昌子により『杉田久女句集』(角川書店)が刊行される。序は高浜虚子。久女への賛辞とともに「行動にやゝ不可解なものがあり」、「精神分裂の度を早め」などの否定的な言葉があり、事実誤認もあったと見られる。次いで、昭和四四年、虚子の序文を削除し、石昌子編『杉田久女句集(新版)』(角川書店)が改めて刊行された(『杉田久女全集』第二巻 立風書房、平元)(坂本宮尾『真実の久女―悲劇の天才俳人 1890―1946』藤原書店、平二八)。

(2)代表作の評価

花衣ぬぐやまつはる紐いろ〳〵 杉田久女

掲句について、虚子は「かういふ事実は女でなければ経験しがたいものであるし、観察しがたい所のものである。即ち此句の如きは女の句として男子の模倣を許さぬ特別の位置に立つてゐるものとして認める次第である」と高く評価した(『ホトトギス』、大八・八)。中村草田男は「明らかに作者は、女性自身という自覚に到達しており、女性独特の誇りをもって、女性独特の体験が活かされようとしている」と述べた(『俳句講座 6現代名句評釈』明治書院、昭三三)。山本健吉は、掲句と〈鬢(びん)かくや春眠さめし眉重く〉などを並べて「閨情と言ってもよい本然的な女の匂いが濃厚である」と書いた。また、〈丹の欄にさへづる鳥も惜春譜〉について、「ひたむきな万葉的情熱の所有者であり、作品においても実生活においても、天成の万葉人であった。彼女に恋愛詩の作が見当たらぬのは、ただ俳句の詩型としての制約によるのであって、たとえ恋愛を直截に叙べなくても、彼女の何か熱っぽい、男をたじたじとさせるような息吹は、一句一句にこもっており、それは恋愛にほかならぬと言っても過言ではない」と熱弁をふるった(『定本現代俳句』角川書店、平一〇)。彼等のような当時の男性評者達を、現代のフェミニズムに基づいて批判することは、賛否が分かれるであろう。しかし、「女性性」を讃えつつもラベリングによって周縁化し、「男性俳句」の「男性性」を暗黙裏に確認する〈飾り(トークン)〉と位置づける価値観を、現代の評者も受け継ぐ場合があるのではなかろうか。久女の俳句をガイノクリティックス(女性の文脈から捉える女性文学の分析)の視点から読み直すことは、こうした「女性性」に拘りすぎる男性ジェンダー化した批評の相を眺め直し、新たな側面を見出す方法となり得よう。

足袋つぐやノラともならず教師妻

画業に専念せず「良教師」として過す夫・宇内。彼への鬱屈した思いを、その妻として抱きつつ、イプセンの『人形の家』のノラのようには〈ならず〉と言い切る。つまり、自分の意思によって、家を出ず、足袋をついでいる、一般的にはそう解釈される。この句は、久女のバイオグラフィーを踏まえると象徴的で印象に残りやすいが、反面、俳句作品としては久女俳句の一面的俗解につながる危険性が高い。久女自身はこの句を「小説的」と分類し、次のように自解した。

(前略)此句はくすぶりきつた田舎教師の生活を背景としてゐる。暗い灯を吊りおろして古足袋をついでゐる彼女の顔は生活にやつれ、瞳はすでに若さを失つてゐる。過渡期のめざめた姿は、色々な悩み、矛盾に包まれつつ尚、伝統と子とを断ちきれず、たゞ忍苦と諦観の道をどこもふみしめてゆく。人形の家のノラともならずの中七に苦悩のかげこくひそめてゐる此句は、婦人問題や色々のテーマをもつ社会劇の縮図である。
(杉田久女「大正女流俳句の近代的特色」『ホトトギス』、昭三・二)

客中主体を作者像から切り離し、客観的に眺めた視座である。家父長制的社会慣習の伝統とつながらざるを得ない女性客中主体の諦めや苦しみ、葛藤。それらを、表現の意図に沿って具体的に、情理を尽くし、かつドラマティックに解釈している。

Ⅳ 久女の女性観、そしてガイノクリティックスへ
(1)久女の女性観
ここで、久女自身の内面化した女性観にも触れておく。

(前略)或る男子方が「女はつまらぬ、アナタ方は頭が古い。感情丈でものを見たがる。理と感情をすぐ混同したがる。ヂヤーギでひいた線の如く万事が明確でない。女なんか」と私共をよく冷笑されます。私は笑はれつゝ考へます。
本を沢山読んでゐる頭のよい男子方が、女なんかとけなされる処には女の不勉強研究心の足りなさ、努力も迫力もうすく、眼界せまい事等、到底男子に追従してゆけぬ点で、我々はけなされても仕方がないと。
しかし私は直ぐ考へ続けます。
いや女が男子にけなされる其理智と感情とを混同したがり、時々は命がけにもなる点。ヂヤーギで引いた如く万事が理詰めでゆかぬ所。女なんか、とけなされる所に、女性の特色があり、女流俳句の進むべき道があるのではないか?
と。(中略)男子が新から新へ追ひ求め、理智的で、誇らかに胸をはり、他をへいげいしつゝ、時には又他を排しつゝ歩み進まるゝ時。女流はつゝましく黙々と時々忍従し、自然の前へぬかづき、象牙の塔にぬかづきつゝ、敬虔な足取で、男の方のなぎ倒しふみにじりつゝ通つた野菊をも静かにひき起す優しさ女らしさで侮蔑にほゝゑみつゝ婦人らしい近代的感覚情緒を、観察を、家庭内を、自然を素材として偽らぬ自己の俳句を次第〳〵にきづき上げてゆくのが婦人俳句のゆくべき道ではないでせうか。
婦人の句は力よわいといふ事もよくききますが、それは、婦人の力量が進歩洗練されぬ為めですから、一層勉強し、命のこもった婦人独自な句境涯を開拓せねばならぬと存じます。
(杉田久女「女流俳句の辿るべき道は那辺に?」『かりたご』昭八・九 傍点久女)

女性差別的な社会構造に対し、「劣等的自画像」を抱きつつも、指導的に先陣を切って、ともに「努力」で乗り越えようと女性達を励ます姿は頼もしい。松本てふこも、この点については同様に指摘している(「笑われつつ考え続けた女たち~杉田久女とシスターフッド~」『俳壇』令三・五)。
しかし、次のようにも捉えられる。差別的構造が存在する社会で成功した女性が、「努力」ができる才能や環境、運、非障害者性や頑強さなどに無自覚なまま、「努力」こそが重要であると宣言する。そして、その社会構造を維持したままで、成功できない女性達に適応を奨める。このような態度は現代でも引き継がれやすい。だが、それは、男性優位社会の温存に与し、女性の中の階級的な差異化を隠蔽し、女性全体の解放を遠ざける態度となる可能性も高い。久女自身も内なる努力至上主義の圧力に苦しめられていたのではなかろうか。
さらに、ジェンダーが固定化されて捉えられている点についても、現代的批評を要する。男性のあとに女性が忍従する男尊女卑の価値観が支配的なだけでなく、男女二元化したステロタイプのジェンダー観であり、そこには収まらない、共約不可能性を有する多様なジェンダーの存在が久女の視座に入っていない。
しかし、われわれは時代が制縛する価値観の中で生きている。当時の社会構造的な性差別主義の価値観に傷つきながら、その中で自己への得心を育み、俳句を志す女性達を鼓舞し、ともにサヴァイヴを目指す方法に、久女は賭けたのであろう。

(2)求められるガイノクリティックスの視点
『杉田久女句集』をガイノクリティックスの視点で捉えるべき理由として、二つの懸念がある。一つ目は、彼女が自ら「女性性」をテーマとして打ち出した俳句は有名であるが、それ以外の視点から俳句芸術の高さを志向したと見られる珠玉の佳句があまり知られていないのではないか、という懸念だ。また、山本健吉をはじめ、特に男性評者が、久女の「情の濃さ」を主軸に照らしながら、「男をたじたじとさせる息吹」を賞めつつ評価を下位に置いたり、その真摯な姿を茶化して評したりするところがあった。それは正当性に欠け、俳句表現の味わいを貧しくする可能性が高いのではないか。これが、二つ目の懸念である。

過去の私の歩みは、性格と環境の激しい矛盾から、妻とし母としても俳人としても失敗の歩み、茨の道であつた。
芸術〳〵と家庭も顧ず、女としてゼロだ。妖婦だ。異端者だ。かう絶えず、周囲から、冷めたい面罵を浴びせられ、圧迫され、唾されて、幾度か死を思つた事もある。
愛する友にも屢そむき去られた。而も猶生命の火は尽きない。大地は絶えず芽ぐむ。
躓き倒れ、傷きつゝも、絶望の底から立ち上り、自然と俳句とを唯一の慰めとして、再び闘ひ進む孤独の私であつた。ダイヤも地位も脊景も私にはなかつた。

自らの主宰誌『花衣』の創刊の辞として、久女はこう書いた(杉田久女『杉田久女全集』立風書房、平元)。久女は、時代が要求する「理想の女性像」とのギャップに苦しみながら、時代をともに生きる女性達を励まし、称揚し、自らの芸術の高さを打ち立てた女性である。たとえ、彼女自身が刷り込まれた男尊女卑観や努力至上主義を抱えていたとしても、その作品が優越していることは差し引いて考えられるべきではない。

Ⅴ 努力と熱意
努力至上主義は、周囲のみならず本人をも苦しめる場合もある。しかし、久女の努力は彼女に喜びも与えた。また、彼女の才能と結びつき、俳句作品に芸術的高さを齎した。
〈谺して山ほととぎすほしいまゝ〉が大阪毎日新聞社と東京日日新聞社主催の「日本新名勝俳句」で帝国風景院賞金賞に選ばれたのは昭和六年、久女が四〇歳のときだ。久女はこの句を得たときの経緯をこう記している。

(前略)行者堂の清水をくんで、絶頂近く杉の木立をたどる時、とつぜんに何ともいへぬ美しいひゞきをもつた大きな声が、木立のむかうの谷まからきこえて来ました。それは単なる声といふよりも、英彦山そのもの山の精の声でした。
私の魂は何ともいへぬ興奮に、耳は今の声にみち、もう一度ぜひその雄大なしかも幽玄な声をきゝたいといふねがひでいつぱいでした。けれども下山の時にも時鳥は二度ときく事が出来ないで、その妙音ばかりが久しい間私の耳にこびりついてゐました。私はその印象のまゝを手帳にかきつけておきました。(中略)
青葉につゝまれた三山の谷の深い傾斜を私はじつと見下ろして、あの特色のある音律に心ゆく迄耳をかたむけつゝ、いつか句帳にしるしてあつたほととぎすの句を、も一度心の中にくりかへし考へて見ました。ほととぎすはをしみなく、ほしいまゝに、谷から谷へとないてゐます。じつに自由に。高らかにこだまして。
(杉田久女「日本新名勝俳句入選句」昭六、『杉田久女全集』第二巻 立風書房、平元)

久女の随筆によると、当時、小倉の富野から彦山鉄道で添田まで二時間、添田からバスで四〇分。バスを下り銅(かね)の鳥居(霊元天皇の英彦山の勅額)から上宮まで約五.六㎞、ゆっくり歩くと二時間で登れたようだ。豊前坊へは約四㎞。南岳をへて上宮まで約六㎞。「一晩泊りで豊前坊や鬼杉巡りをするのもよからう」と彼女は語った(杉田久女「英彦山の仏法僧」『門司新報』一二)。句を得るための登山は繰り返され、入賞したあとには、「御礼まゐり」として六度目の登山を行った(杉田久女「英彦山より」『葉桜』昭和六・六)。天性の感覚の鋭敏さや文学的素養が久女にはあった。そして、並々ならぬ努力と熱意もまた、彼女の俳句の質の高さを支えた。何度も取材を重ね、多くの作句を重ね、推敲し、粘る。久女の俳句に感じられる重厚さはこのような背景によって齎されたのかもしれない。

Ⅵ 久女俳句の可能性
『杉田久女句集』は俳句評論の世界において「女性性の濃い作風」として多くの評者の目を引いてきた。彼女自身も「女らしい感情をぬきにした中性句にも勿論価値はあるが、女性としての真の佳句は、やはり女として匂ひの高い句である様に思ふ」と述べている(杉田久女「桜花を詠める句(古今女流俳句の比較)」『花衣』二号、昭和七・四)。しかし、前述の通り、本句集にはそれのみに留まらない佳句を見出せる。作者の意図はどうあれ、より多面的で、ものごとを繊細な感受性によって冷静に把握し、書き急ぎなく強度ある措辞を使いつつ、豊かな調べを組み入れて表現している作品が数多い。その点は、久女俳句を語る際に見落とされやすいのではなかろうか。

①花大根に蝶漆黒の翅をあげて
②幕垂れて玉座くらさや雨の雛
③枕つかみて起上がりたる昼寝かな
④夕顔やひらきかゝりて襞(ひだ)深く
⑤新涼や紫苑をしのぐ草の丈
⑥西日して薄紫の干鰯
⑦白萩の雨をこぼして束ねけり
⑧寒林の日すぢ争ふ羽虫かな
⑨行水の提灯(ひ)の輪うつれる柿葉うら
⑩鷄頭大きく倒れ浸りぬ潦
⑪焚きやめて蒼朮香る家の中
⑫鶴の影舞ひ下りる時大いなる

虚子は大正七、八年から「客観写生」を説き、次のような信念を広めた。

自然の姿を生けるが如く描くということは自然を貴ぶことであつて、なまじ自己の主観などに重きを置かないで、大自然の懐に安住するやうな心持である。小さい自己を立てようとする努力を一切擲つて、大自然の一行を忠實に寫生しようと志す所に人間の大きな念願がなければならぬ。
(『ホトトギス』、大一二・三)

しかし、掲句は当時の『ホトトギス』の価値観に準じただけの穏当な「写生句」ではない。①花大根の紫に漆黒のコントラストをもたらしつつ翅をあげる蝶。②雨の暗さによって更に暗さを重ねる幕と華やぎが抑えられた冷え冷えとした雛の間。③〈枕をつかみ〉という微細な具体的動作への気付き。④夕顔の開くか開かないかのあわいに見つけた襞の夕光の奥行。⑤紫苑の花と丈を読者に思い描かせるや否や、その他の草が伸び隠してしまうかのごとき大胆な書きぶり。〈しのぐ〉〈丈〉の洗練された語彙選択。また、それを「新涼」と響かせ清々しい空気感で包む感覚。⑥暑くじりじりとしつこく差す西日の中で、干鰯に高貴さを思わせるような薄紫色を感じる眼差し。⑦花の点々とつく白萩の長枝が、光の粒のような雨粒をこぼすのは、束ねる行為によるものである、との繊細な把握。⑧〈日すぢ争ふ〉の緊迫感ある韻文的省略。⑨柔らかい翠の柿の葉の裏側に、提灯の反射の光を見る、その気付きの鋭敏さ。⑩上五の字余りがつくる調べの張り。そして、たとえば「倒れをりたる」などとぼんやりさせず、〈浸る〉まで迫って水の質感を追った動詞の的確さ。⑪蒼朮の名残を感知する嗅覚を書く上で、措辞の余分を全て削ぎ、限界のシンプルさを選ぶ判断。⑫鶴とその影のみを描きつつ、驚きと不穏さを綯い交ぜに感じさせる手際。「客観写生」を基軸にしながら個性的な美意識に大きく踏み出す表現は、大正後期から昭和初期の『ホトトギス』の水準から言っても卓越している。

高等女学校で用ひてゐる国語読本中の昔の女流俳句を見ると、大部分は女らしいとかやさしいとかいふ範囲を出でぬ句が多く、世上にも兎角さうした句が喧伝されがちであるのは純文芸の立場からいつて、誠に遺憾である。
(杉田久女「近代女流の俳句」『サンデー毎日』昭和三・四)

現代以上に権威主義的な空気の濃かった昭和初期にあって、久女は国語読本という権威を批判し、大衆世間に堂々と意見し、古今の女性の秀句を世に推挙した。彼女の考える「女性性」の多様性が大衆より広く、その多様性の豊かさ、個性や美意識こそを芸術の高さだと自負していたからであろう。
句集中、全ての句が名句佳句であると言いたいわけではない。俳句芸術の高さを示すべく句を残した久女は、一方で、生活の記録に留まる句も多く残した。それらも全て含めて自らの俳句人生まるごとで評価を受けたい、という痛々しいまでの生真面目さと自負心があったのであろう。
また、久女の多面性を考えるとき、山本健吉が「閨情」と評したような情感、「男をたじたじとさせる息吹」を低位に置くべきではない。多くの「客観写生」俳句に見られるような、句に情を乗せすぎず、身体性に近寄りすぎず、男性的無徴性に寄せて詠むことを上位に置くべき、という志向は、謂わば、陰画としてのナルシシズムであろう。すなわち、それ自体が、ホモソーシャルにおける男性ジェンダー的傾向を権力化して捉える価値観である可能性も高いのである。

Ⅶ おわりに
最後に、「英彦山 六句」と題された連作を記す。冒頭記した〈谺して山ほととぎすほしいまゝ〉に始まる六句は、久女の多面性が随所に発揮され、格調、調べ、崇高さ、身体感覚、情感、繊細さ、大胆さ、措辞の確かさ全てにおいて連作俳句の最高峰の一つと思われる。彼女の俳句作品そのものの丈の高さは正当に再評価されるべきである。

英彦山 六句
谺して山ほととぎすほしいまゝ
橡(とち)の実のつぶて颪や豊前坊
六助のさび鉄砲や秋の宮
秋晴や由布にゐ向ふ高嶺茶屋
坊毎に春水はしる筧かな
三山の高嶺づたひや紅葉狩