2015年3月21日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子 評者: 横須賀洋子 年末年始などに引用される有名な句。 「何の変哲もない棒の如きもの、それが去年今年を貫いている。(中略)毎日変わることのない日常、それは絶対自信の生活態度といったようなものであり、その棒は不気味な現実感を帯びてくる」清崎 […]
2015年3月11日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム すすき仰山ありすすき一本あり疲れる疲れる 稲葉 直 評者: 横須賀洋子 当時、二人の師を次々見送り呆然としていた。掲句をよんだとき、自分が芒原に立っているような錯覚を起した。仰山ある芒は何時も一本ある(しかない)芒でもあるのだろう。俳人みたいなものかもしれないと思った。「疲れる」が二度重な […]
2015年3月1日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 立ち尿る老女の如く恋こがる 山崎愛子 評者: 横須賀洋子 門の前にまた乳母車がある。空地に入ってゆく彼女、二度目だ。夏草に身を沈めて、しばらくすると放尿の音が聞こえてくる。 戻った彼女は儀礼のような会釈をして去る。臆する色もなく乳母車を押してゆく後姿を呆然と見送りながら、何故 […]
2015年2月21日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 冬蜂の死に所なく歩きけり 村上鬼城 評者: 照井 翠 初学の頃に出会って以来、ずっと私の心に棲みついている一句。 冬の寒さのなか、命が尽きかけ飛ぶこともできない蜂が、ただよろよろと歩を進めている。歩みをやめたかと思うと、また思い出したかのように動く。その弱々しい歩みが、 […]
2015年2月11日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 貌が棲む芒の中の捨て鏡 中村苑子 評者: 照井 翠 一読、女性の性(さが)や情念のようなものを感じる一句である。 芒の中に捨てられた鏡。群れ茂る芒の茎の合間から、その鏡の面が見えている。その鏡に、貌が棲むというのだ。シュールで耽美的な世界に誘われる。 この句のどこに […]
2015年2月1日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 夢に見れば死もなつかしや冬木風 富田木歩 評者: 照井 翠 富田木歩は、2歳の時に高熱を発したあと、両足がきかなくなり歩行不能となった。身体の障害と貧困ゆえに小学校に通うことができず、かるたやめんこで文字を覚えた。姉たちは花街に身を売られ芸妓となり、父が亡くなり、弟が結核で逝き […]
2015年1月21日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ 渡邊白泉 評者: 山田征司 「句と評論」(昭和十年十月号)に「三章」と題して発表。前後に〈向日葵と塀を真赤に感じてゐる〉〈まつさおな空地に灯りたる電灯〉白泉の代表句だけに様々に鑑賞されてきた。 句意としては、「赤い鶏冠をもつ鶏たちには、誰の眼に […]
2015年1月11日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム うしろすがたのしぐれてゆくか 種田山頭火 評者: 山田征司 昭和六年十二月三十一日の日記の末尾に記された十三句中の一句。続いて〈右近の橘の実のしぐれつつ〉〈大樟も私も犬もしぐれつつ〉とある。 数日前の日記には、職業的行乞への疑問と、それに頼らざるを得ない現実、「酒、酒、酒ゆえ […]
2015年1月1日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 鞦韆をゆらして老を鞣しけり 八田木枯 評者: 山田征司 黒澤明監督の「生きる」のラストシーン、ブランコに揺られる名優志村喬の深く哀しげな微笑と「ゴンドラの唄」、名場面が感動と綯い交ぜに蘇る。とは言え、共に老を語って半世紀余はさすがに永い、その在り様は大いに異なる。 収録の […]
2014年12月21日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 馬がいく、馬についていく野へ野へと 田中波月 評者: 田中 陽 一九六三年作。第二句集『野』の巻頭に著者はこの句と<稗 しごくとこぼれ太陽のふところに>の二句を墨書して「私は、昨年の地方選挙に出馬した。……が、結局落選」云々を記し、その短章の結びを「俳句は庶民の文学である。私はその […]