うしろすがたのしぐれてゆくか 種田山頭火 評者: 山田征司

 昭和六年十二月三十一日の日記の末尾に記された十三句中の一句。続いて〈右近の橘の実のしぐれつつ〉〈大樟も私も犬もしぐれつつ〉とある。
 数日前の日記には、職業的行乞への疑問と、それに頼らざるを得ない現実、「酒、酒、酒ゆえに生きてもきたが、こんなにもなった。」と洩らすほどの飲酒、「この旅で私は心身ともに一切を清算しなければならない」と、深刻な自己嫌悪に陥っていたことを伺わせる。
 さて「しぐれ」の定めの無さは、風土に育まれた繊細な美意識に適ってか、古来多く詠まれてきた。ひとつの自然現象に、様々な意味や匂いを加えつつ、人生の無常迅速の象徴とも詠まれ、受用されてきた。
 身を風雪に曝す行乞僧に体感される「しぐれ」は、比喩観念から遠く自ずと別趣の表情も見せる。とは言え、句の嘆息にも似た十四音仮名書は、この伝統の美のうちに自らの後ろ姿を柔らかく重ねて、前書の「自嘲」とは対極の境地を語る。振幅の激しい山頭火にあっては甘美な自己愛のうちに止まることはない。前書は韜晦と釈明、程よい塩加減か。
 『広辞苑』の編者新村出も「〈うしろすがたのしぐれてゆくか〉私はこの句が非常に好きだ。―芭蕉にも宗祇にもなさそうな句境だと思った」と山頭火の行乞記(『あの山越えて』)の序文に云う。呟くにも似た一句に漂う仄かなナルシシズムこそが、多くの共感を誘うものであり、「自嘲」の前書もまたこれを助ける。
 
出典:『草木塔』昭和46年6月30日 潮文社
評者: 山田征司
平成27年1月11日