鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ 渡邊白泉 評者: 山田征司

 「句と評論」(昭和十年十月号)に「三章」と題して発表。前後に〈向日葵と塀を真赤に感じてゐる〉〈まつさおな空地に灯りたる電灯〉白泉の代表句だけに様々に鑑賞されてきた。
 句意としては、「赤い鶏冠をもつ鶏たちには、誰の眼にも鮮明な赤いカンナが、かえって見えないのかも知れない。」、鶏の鶏冠とカンナの色彩、形状の類縁性を発想の原点と見ること、時代状況の裏に潜む見えぬ実態への恐怖感などは広く共有されている。
 ただ、視覚の危うさを第一義とするか、社会批判をそれとするかで句解も分かれよう。
 掲句が今日なお生命を持ち得たのは、ふと口を衝いて出たと思わせる意表を突いた機知にある。この自然な句調は、一読「云われてみれば、」と直ぐ納得させられる。人が最も頼る視覚の危うさを問い直す所に、諧謔への時代を超えた共感が生まれる。
 とは云え、感覚処理の巧みさからのみ語るには惜しい。類縁関係にあるだけ、かえって見えないというイロニーの背後には明確な社会批判を忍ばせる。即ち現前する「カンナ」は、これより僅か数ヶ月後には二・二六事件となって噴出する時代の不気味な暗部を、「鶏たち」とはその正体を見抜けない一般の人々の暗喩とも読ませる。
 〈街燈は夜霧に濡れるためにある〉等、これらに続く戦争俳句から照射するとき、作者の意図は寧ろここにあろう。                  
 
出典:俳誌『句と評論』昭和10年10月号
評者: 山田征司
平成27年1月21日