冬蜂の死に所なく歩きけり 村上鬼城 評者: 照井 翠

 初学の頃に出会って以来、ずっと私の心に棲みついている一句。
 冬の寒さのなか、命が尽きかけ飛ぶこともできない蜂が、ただよろよろと歩を進めている。歩みをやめたかと思うと、また思い出したかのように動く。その弱々しい歩みが、作者には、死にどころを求めあぐねているかのように感じられたのだ。
 眼前の小さな生き物の有り様を「死に所なく」と把握した作者の、その時の心情や人生観にも自然に思いがいく。作者の厳しい自己投影に、心打たれる。
 東日本大震災では、何の罪もない二万人以上の人々が津波に呑まれ命を落とした。二万の人がいちどきに亡くなったのではない。ひとりひとりの尊い命の終わりが、二万回訪れたということだ。こうでも考えなければ、あの三月十一日のひとりひとりの死に思いをいたすことができない。その死を心から悼むことができない。
 震災後の釜石の人々の様子は、この句に詠まれた冬蜂そのものだった。
 大渡橋という橋の上を、人々は、ぼろぼろになって、抜け殻のような呆けた表情で、亡霊のように行き交った。怪我した足を引きずり、杖をつきながら歩く人は、まだましな方だった。目に見える形で病んでいる人は、いい方なのだった。外からはっきりとは分からないものの、心を病んでいる人が町中に次第に増えてきている感触があった。
 うつむいたままで、小声で間断なく呟き続ける人。ちぐはぐな格好で、脈絡のないことを大声で叫びつつ津波跡地を巡り歩く人。目がどんよりと濁り生気がない人…。
 家族を喪い、家を流され、ぽつんと生き残ってしまった生き地獄。死にどころを求めあぐね、釜石の町をよろよろとさまよい歩く人々。
 震災からもうじき四年。被災地では、今、自殺が増えている。
 
出典:『鬼城句集』
評者: 照井 翠
平成27年2月21日