2015年9月11日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 鳴き終えて蟬がきれいになっておる 森下草城子 評者: 伊藤政美 この作品は、毎月行われている「中日総合俳句会」の平成24年8月例会に出されたものである。そのとき、私が推薦5句のうちの1句として選んだこともあって、会報に小評を書くことになった。 以下、そのまま引用する。 俳句はリ […]
2015年9月1日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 泉への道後れゆく安けさよ 石田波郷 評者: 伊藤政美 波郷が、松山中学の同級生中富正三(後の、俳優大友柳太朗)に俳句の道へ誘われたのは有名な話である。 私は、その大友柳太朗のファンであった。 昭和25(1950)年、進駐軍によるチャンバラ禁止令が解除され、時代劇映画は […]
2015年8月21日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 友よ我は片腕すでに鬼となりぬ 高柳重信 評者: 白石司子 「富澤赤黄男の没後、彼の門下たることを自覚している者は二人おり、一人は詩人として頭角を現わした鷲巣繁男、もう一人は私である。」(『講座日本現代詩史・第三巻』昭和48年)、という「私」、即ち高柳重信は、 身をそらす虹 […]
2015年8月11日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 黄昏の象きて冬の壁となる 富澤赤黄男 評者: 白石司子 『天の狼』再版本(昭和26年)所収、「冬園―われも一匹のさむきけものなり―」と前書された連作七句中の最後の句で、掲句の前には、 猿をみる猿にみらるるさむきわれ 断雲(ちぎれぐも)浮いてキリンに喰べられる 陽 […]
2015年8月1日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 犬がその影より足を出してはゆく 篠原 梵 評者: 白石司子 難解派・人間探求派と呼ばれる発端となった座談会「新しい俳句の課題」(「俳句研究」昭和14年8月号)には、石田波郷・加藤楸邨・中村草田男・篠原梵が出席。進行を務めた石橋貞吉(山本健吉)は、それから47年後に出版した『昭和 […]
2015年7月21日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム わが影とわれと月下に睦み合ふ 林 翔 評者: 中村正幸 物と影というものを考えるとき、物は実体本体であり、影はその従属物であるというのが一般的な捉え方である。しかし、時には影は物と同等かそれ以上の存在感を示すことがある。掲句においてもそのことは言える。我とわが影が主と従とい […]
2015年7月11日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 鶏頭を三尺離れもの思ふ 細見綾子 評者: 中村正幸 「もの思ふ」にはデカルトの「我思う、故に我あり」(コギト・エルゴ・スム)を想起する。哲学的真理を求めて、デカルトは疑わしいものをすべて捨て去っていった。しかし最後にどうしても捨てきれぬもの、それが疑っている自分の存在で […]
2015年7月1日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 砂熱し沈黙世界影あるき 加藤楸邨 評者: 中村正幸 奥の細道を旅した芭蕉が旅の人であることは言うまでもないが、楸邨もまた旅に固執した。芭蕉研究に生涯を捧げた楸邨である故当然と言えば当然のことである。芭蕉の奥の細道に相当するのが楸邨のシルクロードである。 現代とは異なり […]
2015年6月21日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム ひまわりに痛みを注ぐ夏の姉 大本義幸 評者: 林 桂 戦争体験を内面化することで、俳句逆風の戦後「第二芸術」時代を俳句革新のために生きた世代は、戦前、戦中の既成俳壇に名をなすことのなかった二十代を中心とした若者達であった。主に大正後半に生まれた人々である。戦後の「社会性」 […]
2015年6月11日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 少年よ國家より一人の友をこそ 坂戸淳夫 評者: 林 桂 新聞が李香蘭の未発表の音源が二曲発見されたと伝えている。昭和19年11月に録音された大木惇夫作詞(大木あまりの父)、古賀政男作曲の楽曲という。未発表になった詳細は不明だが、「作詩不良の為発売不能」と社の記録が残されてい […]