友よ我は片腕すでに鬼となりぬ 高柳重信 評者: 白石司子

「富澤赤黄男の没後、彼の門下たることを自覚している者は二人おり、一人は詩人として頭角を現わした鷲巣繁男、もう一人は私である。」(『講座日本現代詩史・第三巻』昭和48年)、という「私」、即ち高柳重信は、
   身をそらす虹の
   絶巓
       処刑台
や、
   沖に
   父あり
   日に一度
   沖に日は落ち
などの句で、富澤赤黄男の一字空白表記による「切れ」の認識を、四行表記を典型とする多行形式へと発展、「言葉の連続性と不連続性との統一」を造型性に置こうとしたが、高柳重信という署名を拒み、山川蝉夫の筆名で発表した一行形式の掲句は、重信の言葉通り「夕暮れの物憂さに誘われる単純素朴な言葉の遊びに過ぎない」のであろうか。
 重信の従来の考え方、「言葉の集合の一単位としての心象は、当然に、それだけで明確な一行を形成すべきだ」ということからすれば、友人、そして自身の内面への呼びかけである「友よ」を際立たせるためにも多行形式となるはずであるが、「すでに俳句形式が知り尽くしている技術のみを使」い、「一句について五分間以上は考えないという制約を厳密に守」った掲句は、一行形式で、しかも一句としての完成度が高いものとなっている。
 人間という概念をつくり出す為に、その反対物として造形され、隠れて姿を現さない「隠(おん)」に由来するという「鬼」は、「異形」或いは「死者の世界」の象徴。大学卒業時に肺結核を患う暗い運命を抱えつつ、いや、抱えたからこそ、俳句に一生を捧げた「我」の片腕は既にあちらの世界にあって、思うように支配できぬものとなってしまったが、もう一方の腕はこちらの世界にあるという、どちらかと言えば宙ぶらりんな状態。俳句を必死に書き綴ってきた者にとって、それはあまりにも痛ましく、重信の前半生の多行形式から、後半生の一行形式を考えた時、富澤赤黄男の「詩人は、自己の≪詩≫によつて、自己の<限界>を超えようとする悲願の中に生きるほかない。詩人とは、つひに永遠に<実験するもの>でしかないのではないか」という言葉を思わずにはいられないのである。
 <実験するもの>として、「象徴の空白の激しさ」を覗きながらも「空白は 空白のまま」と沈黙せざるをえなかった赤黄男、そして、「行をわけて、頻繁な断絶を」と言いつつも、「言葉の遊びに過ぎない」と、山川蟬夫の名で後半生から最晩年まで書き綴られた一行の作品群。それらを考えた時、赤黄男の一字空白表記も、重信の多行形式も、不易性と流行性を獲得せんがための試行であったという考え方もできる。一行形式の掲句を発表して6年後、高柳重信は肝硬変のため、片腕のみでなく、遂に鬼籍に入るのである。
 高柳重信が言うように「外見はどうあろうとも、いまや俳壇のあらゆる問題は、言葉に対する認識如何にかかっている」とすれば、「現代俳句」は、まだ可能性への挑戦過程にあるといえるのではないだろうか。

出典:『高柳重信全集第一巻』(立風書房・昭和60年)

評者: 白石司子
平成27年8月21日