黄昏の象きて冬の壁となる 富澤赤黄男 評者: 白石司子

 『天の狼』再版本(昭和26年)所収、「冬園―われも一匹のさむきけものなり―」と前書された連作七句中の最後の句で、掲句の前には、
  猿をみる猿にみらるるさむきわれ
  断雲(ちぎれぐも)浮いてキリンに喰べられる
  陽さむく焦燥の熊は汚れたり
  蝙蝠は孤獨の枝にぶらさがる
  失(き)えてゆく冬陽の端にねむる鷲
  嘴が重たくなりて痩せし鶴
がある。富澤赤黄男と同じく、新興俳句を出発とした西東三鬼は、「一句に余る詩情を次々に一句として表はし得る連作は、確に俳句を定型として守り得た」と連作の効用を認識しつつも、損失として、「俳句を脆弱にした」、また、「作家を俳句に於いて多弁にした」と指摘しているが、連作とすることで、ほぼ定型を守り得ているこれら六句を、完結した一句として鑑賞してみたい。
 一句目では、猿に見られるという行為に寒さを覚え、二句目では、何かの象徴である浮いている断雲(ちぎれぐも)がキリンに喰べられ、三句目では、陽が寒く檻の中でうろうろしている熊の焦燥をひとつの汚点と捉え、また、四句目では、蝙蝠のぶらさがっている枝を孤独としたところに、五句目では、鷲がねむっているのを失(き)えてゆく冬陽の端としたところに、六句目では、痩せた鶴を嘴が重いからだとしたところに発見がある。連作で次々と動物を登場させたことと、前書により、共通点を見出すことができるが、「猿をみる」の句以外は、一匹のけものとしての自身の内面的寒さがそれほど伝わってこない。つまり、独立した一句としては脆弱というべきだろうか。
 さて、掲句であるが、「黄昏」を人の見分けのつきにくい「たそがれどき」と取るか、比喩的に「人生の盛りが過ぎて終わりに近づこうとする年代」と取るかで句意は違ってくるが、「黄昏の象きて」で軽く切れるので、上五の助詞「の」は、俳句独自の用い方をする切れ字ではなく、限定を加える「の」と考えられるし、また、「黄昏に」ではなく、「黄昏の」であるので、後者とした方がよさそうだ。
 日野草城、西東三鬼、藤田初巳、東京三、篠原鳳作と共に参加した『現代俳句・第三巻』(昭和15年)に収録された作品「魚の骨」では、「象徴の径」を発見すべく「聲一パイに詩はう」とし、「黄昏はなにかをだいてゐたいこころ」と、何かを抱え込みたいような「黄昏」であり、『天の狼』再版本所収の「風の歌」と題された連作中では、「孤り昏れて風と壁とにつきあたる」と、突き当たる存在としての「壁」でもあったが、掲句においては赤黄男の分身でもある陸棲哺乳動物中で最大の「象」が来て、『天の狼』初版から再版に至る、十年という歳月の「苦難と悲痛の時代」の暗喩でもある、「冬」の全てを遮断する壁となってしまうのである。
 『天の狼』初版本(昭和16年)では、「冬園―われも一匹のさむきけものなり―」と前書された連作七句は差し控えられ、再版本において組入れられた理由はわからないが、掲句が独立した一句として鑑賞に耐え得るのは、連作で主題を展開し、最後に至って、抽象的内容を明確化させることができたからかもしれない。「壁」となって、自身で限定してしまった空間は、「俳句の純粋孤独」を標榜した赤黄男の詩的空間でもある。
 正岡子規、高浜虚子を輩出した、いわゆる伝統的色彩の濃い愛媛に、新興俳句運動が生み出した典型的な俳人の一人である富澤赤黄男が出現したというのも特異と言えば特異だ。

出典:『富澤赤黄男全句集』(沖積舎・平成7年)

評者: 白石司子
平成27年8月11日