犬がその影より足を出してはゆく 篠原 梵 評者: 白石司子

 難解派・人間探求派と呼ばれる発端となった座談会「新しい俳句の課題」(「俳句研究」昭和14年8月号)には、石田波郷・加藤楸邨・中村草田男・篠原梵が出席。進行を務めた石橋貞吉(山本健吉)は、それから47年後に出版した『昭和俳句回想』の中で、
人間探求派といっても、梵はちょっと違うんです。新興俳句と、ある意味では、おんなじ立場にもいたということだ。非常に合理的に俳句というものを割り切ろうとしている。(中略)だから、梵が一人だけ忘れられているというんじゃなくて、その理由があるんだよ、人間探求派からふり落したなんて言われるけど。人間探求派といわれることを潔しとしないものが、おそらく、梵にはある。
としているが、「その理由」とは、掲句のような作品をいうのであろうか。先ず、「晴(はれ)」の読みに徹したい。
 作者の眼前にいるのは、犬。そして、その影よりだから、外灯によってできる影といった解釈も可能だが、「足を出して」ではなく、「足を出しては」の強調の助詞「は」、そして、「いく」ではなく、「ゆく」の「う音」の沈鬱さからすれば、暑い盛りの昼間の影と考えた方が妥当だ。犬が影から足を出して前進するという単なる景の説明ではなく、内面的深みを感じさせるのは、指示代名詞「その」、また、「は」、「ゆく」による効果が大きい。
 次に「褻(け)」の読みをするならば、掲句は「市井身辺」63句中の1句であり、しかも無季であることから、「詩の在り場所がわからないと言つた戸まどひ」がある人たちからすれば、連作で主題を展開し、無季俳句へと転進した新興俳句と「ある意味では、おんなじ立場にもいた」と捉えられてしまうかもしれない。が、季としては、何もかもが静止しているような錯覚に陥る「炎天」、それも敗戦直後の「市井」を思わせ、「影より」ではなく、「その影より」としたことで、「生」そのものの象徴である犬がよりクローズアップされ、一歩ずつ意を決して行かなければならぬことの大変ささえもうかがわせる。そして、自身も己が影から足を出さなければ一歩たりとも進めないのに、犬のように出来ないことに躊躇っている作者像も全体から見えてくるのである。つまり、掲句のテーマはあくまでも人間の内面であり、四人共通の傾向である「俳句に於ける人間の探究(ママ)」がなされているといえるのではないだろうか。
 「ひそかに新興俳句に対して不満を抱」いていた山本健吉にとって、
  寒き燈にみどり児の眼は埴輪の眼
  扇風機止り醜き機械となれり
  葉桜の中の無数の空さわぐ
  夏空と赭き長江だけがある
  北極星またたく私はまたたかぬ
などの作品全体に漂う「人臭さ」よりも前に、篠原梵の考え方、つまり、「発句は挨拶として、季節を詠み込まなくてはならぬ、などといふことで季題、季語が入るのを求められるのは中途からのことであり、一句の独立を際立たせる技巧上の要請でもある。」、また、「創作活動の際に抵抗を感じる、矛盾を感じる、さういつた感じは何がさせるかと言ふとすべて長さのせゐです。この長さの強ひる力、長さの持つ要請力が俳句性です。」などの言葉から、「非常に合理的に俳句というものを割り切ろうとしている」と決めつけ、「俳句固有の目的と方法から逸脱」した新興俳句と同列化するほかなかったのかもしれない。
 生涯に得た作品数においては、石田波郷・加藤楸邨・中村草田男に及ばぬが、人間探求派の一人として篠原梵が見直されてもいいのではないかと思う所以である。

出典:『年々去来の花』(丸ノ内出版・昭和49年)

評者: 白石司子
平成27年8月1日