わが影とわれと月下に睦み合ふ 林  翔 評者: 中村正幸

 物と影というものを考えるとき、物は実体本体であり、影はその従属物であるというのが一般的な捉え方である。しかし、時には影は物と同等かそれ以上の存在感を示すことがある。掲句においてもそのことは言える。我とわが影が主と従という関係にあるのではなく、少なくとも同等の関係にあるように思う。
 影の重要性を考えるには、影を失った自分の存在を考えてみるとよい。白昼に影のない自分の存在は、まさに自分自身の否定となること疑いない。本体としての人間そのものの存在が否定されることになる。影は本体を支えるだけでなく、それを確実にし、保証するものなのである。
 句の中に入ってみよう。月光の下で自分の影を見つめ続けるとき、影が自分となり自分が影となっているという感覚にとらわれた。影と我とが無意識下で睦み合っている状態なのである。これは月光というものの不思議な力によるところが大である。古来から人類は太陽、月を見つづけきた。昼を支配する太陽夜を支配する月に怖れと畏敬の念を持ってきた。特に闇を怖れる人類はその闇を照らす月ある種の魔力を感じてきた。そのような月光を浴び、月光に包まれるとき、人は非日常の感覚を持つことになる。その力によって我と影とが不可分の感覚にとらわれることになる。我々の命は宇宙のちりを起源としている。月光が人の心に大きな作用を与えるのは、そのような記憶が遺伝子を通して、人間に伝わっているからかも知れない。
 「睦み合ふ」には芸術家独特のナルシシズムを感じる。真理、実体を求める芸術家は、相対ではなく絶対の世界に自分を置くことになる。自分の世界に陶酔することによって、芸術的真に触れることが出来る。時にそれは独善的、排他的であるかも知れない。しかし、類型を求めない姿こそ芸術家の真の姿とも言える。人の共感を得ることは、類型化のはじまりであり、独創から遠いものとなる。

出典:『あるがまま』

評者: 中村正幸
平成27年7月21日