2008年8月24日 / 最終更新日 : 2019年2月21日 gendaihaiku 現代俳句コラム 遠方とは馬のすべてでありにけり 阿部完市 評者: 塩野谷仁 『阿部完市俳句集成』の「鶏論」のなかの一句。 わたしたちにとって、「遠方」とはどんな位相を占めているのであろうか。ある人にとっては指呼の間の距離かもしれないし、また違うある人にとっては、はるかな、行けども行けども行き […]
2008年7月20日 / 最終更新日 : 2019年2月21日 gendaihaiku 現代俳句コラム 人形を射つ流燈の町の辻 田川飛旅子 評者: 中村和弘 句集「山法師」(田川飛旅子第五句集)所収。昭和五十一年作。昨今は目にするこ との少なくなったが温泉街などによくあった射的場。コルクの弾丸を詰めて人形等を 射つ。折しも精霊を送る燈籠流しが行なわれている。燈籠がひしめき合 […]
2008年6月24日 / 最終更新日 : 2019年2月21日 gendaihaiku 現代俳句コラム 沖に/父あり/日に一度/沖に日は落ち 高柳重信 評者: 木村聰雄 「遠耳父母」(『高柳重信全句集』〔昭和47年〕に収録)からの無季の句。海のかなたを眺めていると、遠くから声なき声に呼ばれている感覚に捉われることがある。いざなうようなその声を、父と認識したところにこの句は立つ。「沖に/父 […]
2008年5月19日 / 最終更新日 : 2019年2月21日 gendaihaiku 現代俳句コラム 湿原に星の隕ちたる飛沫のこと 小川双々子 評者: 須藤 徹 本作品のポイントは、最後の措辞「飛沫のこと」であるだろう。このことばによって、作品の余韻が最大限に膨らんだ。「飛沫」によって、美しい星の堕ちる軌跡が、見事に映像化された。広大な「湿原」に星が堕ちるイメージに感嘆して、静 […]
2008年4月21日 / 最終更新日 : 2019年2月21日 gendaihaiku 現代俳句コラム 大粒の雨に交じりて樫落葉 西山泊雲 評者: 後藤 章 写生といえば素十というのがもっぱらで、泊雲などはホトトギス系の俳人でも名を上げる人は少ないであろう。もちろん反ホトトギス系でも、飯島晴子は「言葉の後に立つものが何も無い」「ホトトギスのクソリアリズム」として唾棄した。た […]
2008年3月27日 / 最終更新日 : 2019年2月21日 gendaihaiku 現代俳句コラム 花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月 原 石鼎 評者: 松本孝太郎 初学の頃、角川文庫の『現代俳句』(山本健吉著)の中で出遇った句。原石鼎その人をよく知らぬまゝに、此の句だけが脳裏に焼き付いてしまった。今更申す迄もなく、石鼎の「深吉野」時代の代表句だが、どう見ても舌に滑らかなリズムでは […]
2008年2月27日 / 最終更新日 : 2019年2月21日 gendaihaiku 現代俳句コラム 寒紅や都はるみ少し痩せたか 鈴木石夫 評者: 前田 弘 たまたま見ていたTVの画面に都はるみが映った。一見、寒紅を刷いた表情はきりりとしているが、作者は彼女の姿に「痩せ」を見逃さなかった。思わず「都はるみ少し痩せたか」と呟き、そのまま俳句にしてしまった。作者は、この頃は体重 […]
2008年1月7日 / 最終更新日 : 2019年2月21日 gendaihaiku 現代俳句コラム 寒晴やあはれ舞妓の背の高き 飯島晴子 評者: 長峰竹芳 現代俳句大会が京都で開催されたとき、前日に宮川町と祇園界隈の花街を歩いた。京都の花見小路あたりを歩くと、必ずこの句を思い出すのは、絵葉書のような祇園と舞妓の姿がすぐ脳裏に浮かぶせいである。 この句で私が初めに気になった […]