大粒の雨に交じりて樫落葉 西山泊雲 評者: 後藤 章

 写生といえば素十というのがもっぱらで、泊雲などはホトトギス系の俳人でも名を上げる人は少ないであろう。もちろん反ホトトギス系でも、飯島晴子は「言葉の後に立つものが何も無い」「ホトトギスのクソリアリズム」として唾棄した。たしかに西洋近代哲学に立脚した美意識で見ればこの句の後に何も見えないのである。常磐木である樫の落葉が大粒の雨と共に降ってくるだけである。しかし泊雲はそこにかすかな夏の気配を、移りゆく自然の気息を感じ取っているのである。泊雲の心底には恐ろしいまでに「個」を否定するアナーキーな人間がいる。彼は虚子一人を除いて読者までを否定していたかもしれない。「ワレ」が存在してこその「他」=客観とは西洋哲学の公式であるが、それすらを否定したと思われる泊雲の作句のこころみを見直す必要を時代が求めている。
 
評者: 後藤 章
平成20年4月21日