2015年10月11日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 切株はじいんじいんと ひびくなり 富澤赤黄男 評者: 神野紗希 切株が、じいんじいんと響いている。ただそれだけだ。なのに、なんでこんなに切なくなるのだろう。 「じいんじいん」というオノマトペは、「じんじん痛む」とか「じいんと感動する」などといった使われ方をするので、伐られた切株の […]
2015年10月1日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム しづかなる水は沈みて夏の暮 正木ゆう子 評者: 神野紗希 自転車登校だった高校時代、行き帰りによく川原に寄ってボーっとしていた。別に友人が少なかったわけでも、不良だったわけでもないが、土手に寝転がって川の流れを見つめているのが好きだったのだ。川は停滞しない。必ずどこかへ流れて […]
2015年9月21日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 切通し抜け紺碧の揚羽となる 橋本輝久 評者: 伊藤政美 この句は橋本の第三句集『殘心』に収録されている。 一言で言えば、『殘心』は私には重い句集である。第一、俳句に対する向き合い方が違う。 橋本は、「あとがき」で「小学校一年のときに生地の広島で原爆に遇った。戦後四十年経 […]
2015年9月11日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 鳴き終えて蟬がきれいになっておる 森下草城子 評者: 伊藤政美 この作品は、毎月行われている「中日総合俳句会」の平成24年8月例会に出されたものである。そのとき、私が推薦5句のうちの1句として選んだこともあって、会報に小評を書くことになった。 以下、そのまま引用する。 俳句はリ […]
2015年9月1日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 泉への道後れゆく安けさよ 石田波郷 評者: 伊藤政美 波郷が、松山中学の同級生中富正三(後の、俳優大友柳太朗)に俳句の道へ誘われたのは有名な話である。 私は、その大友柳太朗のファンであった。 昭和25(1950)年、進駐軍によるチャンバラ禁止令が解除され、時代劇映画は […]
2015年8月21日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 友よ我は片腕すでに鬼となりぬ 高柳重信 評者: 白石司子 「富澤赤黄男の没後、彼の門下たることを自覚している者は二人おり、一人は詩人として頭角を現わした鷲巣繁男、もう一人は私である。」(『講座日本現代詩史・第三巻』昭和48年)、という「私」、即ち高柳重信は、 身をそらす虹 […]
2015年8月11日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 黄昏の象きて冬の壁となる 富澤赤黄男 評者: 白石司子 『天の狼』再版本(昭和26年)所収、「冬園―われも一匹のさむきけものなり―」と前書された連作七句中の最後の句で、掲句の前には、 猿をみる猿にみらるるさむきわれ 断雲(ちぎれぐも)浮いてキリンに喰べられる 陽 […]
2015年8月1日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 犬がその影より足を出してはゆく 篠原 梵 評者: 白石司子 難解派・人間探求派と呼ばれる発端となった座談会「新しい俳句の課題」(「俳句研究」昭和14年8月号)には、石田波郷・加藤楸邨・中村草田男・篠原梵が出席。進行を務めた石橋貞吉(山本健吉)は、それから47年後に出版した『昭和 […]
2015年7月21日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム わが影とわれと月下に睦み合ふ 林 翔 評者: 中村正幸 物と影というものを考えるとき、物は実体本体であり、影はその従属物であるというのが一般的な捉え方である。しかし、時には影は物と同等かそれ以上の存在感を示すことがある。掲句においてもそのことは言える。我とわが影が主と従とい […]
2015年7月11日 / 最終更新日 : 2019年1月11日 gendaihaiku 現代俳句コラム 鶏頭を三尺離れもの思ふ 細見綾子 評者: 中村正幸 「もの思ふ」にはデカルトの「我思う、故に我あり」(コギト・エルゴ・スム)を想起する。哲学的真理を求めて、デカルトは疑わしいものをすべて捨て去っていった。しかし最後にどうしても捨てきれぬもの、それが疑っている自分の存在で […]