しづかなる水は沈みて夏の暮 正木ゆう子 評者: 神野紗希

 自転車登校だった高校時代、行き帰りによく川原に寄ってボーっとしていた。別に友人が少なかったわけでも、不良だったわけでもないが、土手に寝転がって川の流れを見つめているのが好きだったのだ。川は停滞しない。必ずどこかへ流れてゆく。鴨長明はその様子を「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず」と表現したが、私はこの『方丈記』冒頭の一節をよく口ずさんだ。無常観にかられたのではなく、全ての水は入れ替わってゆくのだという摂理が、とても新鮮で気持ちの良いことに思えたからだ。人間の細胞だって、半年後にはほとんどが新しく入れ替わっていると聞く。川も、同じように「かつ消えかつ結びて」生きているのだと思った。今この瞬間も、全てが新しいこと。私は川を見つめながら、その快さに身を委ねていた。その石手川が、かつて正岡子規が青春の進路の挫折と決意を詠んだ〈若鮎の二手になりて上りけり〉を詠んだ場所だとは、当時は知らなかった。もう鮎の遡るほどの清流ではなくなっていたが、春になればきらきらと、笑うように川が弾けた。
 そのころ、初めて繙いた句集が、正木ゆう子の『静かな水』だった。華やかな句に惹かれつつ、心はいつも、この句に帰ってきた。沈んだ水は見えない水だ。だんだん空が暮れてきて、藍色の闇が何層にもなって沈んでくる。水面にはやや騒がしい水も急ぐ水もいて、その一番底の層には、「しづかなる水」が横たわっている。「しづ」「みず」「しづ」のZの韻も、どこか沈みゆく重たさを思わせる。光が絞られてゆく夏の夕暮れに、視覚よりも心が鋭敏になって、見えないものが見えてくる感じは、川原で何度も体験したものだったが、あの複雑な感覚を、鮮やかに十七音で切り取ることができるのだということに驚き、俳句はすごいと感動した。同じころ、国語の教科書には長谷川櫂の〈春の水とは濡れてゐるみづのこと〉が載っていて、水には「しづかなる水」や「濡れてゐるみづ」があるのだと知った。いや、その事実はすでに体感していたはずなのだが、それを表現する言葉を知らなかったのだ。ゆう子や櫂の句によって、はじめて感覚に名が与えられ、絶えず流れて消えてゆく現実の瞬間が、永遠の言葉となって刻まれた。それは、手に触れているそれが「WATER」だと知った、ヘレン・ケラーの喜びに似ていた。

出典:『静かな水』

評者: 神野紗希
平成27年10月1日