2010年3月21日 / 最終更新日 : 2019年2月5日 gendaihaiku 現代俳句コラム 春の水あふれひとりを持てあます 大高 翔 評者: 田付賢一 私が最初に大高翔に会ったのは、まだ彼女が立教大学の二年に在学中の頃だった。ある新聞の取材に同行して、その頃翔がひとり暮しをしていた池袋の2DKのマンションを訪ねた時である。 その輝く眸をまっすぐ向けて「わたしの日日が […]
2010年3月11日 / 最終更新日 : 2019年2月5日 gendaihaiku 現代俳句コラム 遠山に日の当たりたる枯野かな 高濱虚子 評者: 田付賢一 現役の教師(女子中学・高校)だった頃、教科書に出てくる句の心情を生徒たちに理解させるためにずいぶん苦労したものだ。 たとえばこの句の解釈について指導書には次のように書かれている。 「行く手のはるか向うに見える山には日 […]
2010年3月1日 / 最終更新日 : 2019年2月5日 gendaihaiku 現代俳句コラム ねむりても旅の花火の胸にひらく 大野林火 評者: 豊田都峰 俳句は叙事詩と説明される。実際短詩形を追求するとき、納得は出来るが、叙情詩であるとも言いたい。物を思いを託してこそ俳句的骨格は出来るが、和歌的なリズムも一概に捨て切れない所に私の苦闘がある。 私淑した長谷川素逝作品も […]
2010年2月21日 / 最終更新日 : 2019年2月5日 gendaihaiku 現代俳句コラム 落葉松はいつめざめても雪降りをり 加藤楸邨 評者: 豊田都峰 俳句は自分が詠う。ために誰でもが詠えるような内容では作る意味がなくなる。自分がよく見て、自分の持つ何かを詠いたい。 私が私淑したのが長谷川素逝(1907→1946)であるが、「写生」とは心を写すことだ、と説いている。 […]
2010年2月11日 / 最終更新日 : 2019年2月5日 gendaihaiku 現代俳句コラム 雪残る頂ひとつ国境 正岡子規 評者: 豊田都峰 俳句とは何か。残念ながら答はない。誰もが相対的に答を出しているのが現状である。私にも私なりの答はある。その原点になっているのが掲出の作品である。 子規は「俳句分類」という方法で以前の作品を収集した結果、あまりにも同じ […]
2010年1月31日 / 最終更新日 : 2019年2月5日 gendaihaiku 現代俳句コラム 秋の暮摑めば紐の喚ぶかな 河原枇杷男 評者: 中村和弘 この句の収められている句集『閻浮提考』の閻浮提(えんぶだい)は、仏教で説く須弥山の南方にある島(洲)、人間の住む世界で閻浮樹の茂る島を意味する。諸仏に会い仏法を聞くことのできるのはこの洲のみとされる。掲出句の他に< […]
2010年1月21日 / 最終更新日 : 2019年2月5日 gendaihaiku 現代俳句コラム 洞の木や蝶の骨など重りて 柿本多映 評者: 中村和弘 作者の蝶による情(こころ)、こだわりようは尋常ではない。全句集を調べた訳ではないが、揚羽蝶等を含めると蝶を詠んだ句はかなりの数になる。そして秀句も多い。気付いた秀句を揚げると、<蝶食うべ二度童子(ふたたびわらし) […]
2010年1月11日 / 最終更新日 : 2019年2月5日 gendaihaiku 現代俳句コラム 太陽を頂点に積みオレンジ売 小檜山繁子 評者: 中村和弘 昭和五十年、加藤楸邨を団長とするシルクロードの旅アテネで詠んだうちの一句。 燦々と陽光のふりそそぐアテネの街頭、オレンジを山のように積みあげて売っている。ちょうど太陽がそのオレンジの山の頂にかかり、太陽ごとオレンジを […]
2010年1月1日 / 最終更新日 : 2019年2月5日 gendaihaiku 現代俳句コラム 平等に飼われ年とる青めだか 希田沙知子 評者: 村井和一 黒めだか、緋めだか、青めだか、グッピーもめだかの仲間である。「めだかの学校は川の中」などと童謡で歌われるくらい日本の小川でよく見かけたものである。しかし、今日では、あまり見かけることがなくなった。たぶん小川の水質が悪く […]
2009年12月21日 / 最終更新日 : 2019年2月7日 gendaihaiku 現代俳句コラム 菜種梅雨ああ包丁が切れなくて なかもと淑子 評者: 村井和一 春の長雨。「菜種梅雨」は、冬から春への境目に降るが、この頃は冬以上に寒いことがある。雨の湿り気が包丁の切れ味を悪くする。包丁が切れなくなる原因は、一つは刃こぼれ、また菜っきり包丁で肉を切ったりすると脂がついて切れ味を悪 […]