秋の暮摑めば紐の喚ぶかな 河原枇杷男 評者: 中村和弘

 この句の収められている句集『閻浮提考』の閻浮提(えんぶだい)は、仏教で説く須弥山の南方にある島(洲)、人間の住む世界で閻浮樹の茂る島を意味する。諸仏に会い仏法を聞くことのできるのはこの洲のみとされる。掲出句の他に<紐>を核にした句
  虹しづかに紐垂らすかな我に
  西方を紐来つつあり巻貝在り
  春深し夢みる紐の両端よ
  蛇と紐つるみ交みて日は天に
  紐つひにおのれに絡む月夜かな
がある。中で、やはり掲出句が完成度が高いように私には思われる。古来、紐は人間の生活に必要不可欠な物である。どんな民族においても紐、ロープを用いることのない生活など考えられないであろう。また紐は、用い方によって自在に変幻しときには兇器にもなろう。無機物でありつつ、ときには命を付与された生物のようにも見える。また意志あるような作用をする。この句を読みつつ、ふっと
  無名(アノニム)の空間 跳び上る 白い棒  富澤赤黄男
という句が思い浮んだ。紐も、この句の棒も自らの意志、感情を持っているかのように喚び、そして跳ねあがる。が、両句比較してみると、<秋の暮>という伝統的な季語を上五に据えている分、掲出句は抒情が濃く俳諧味が漂う。紐、棒に託された作者の心情、いや真情を思うと両句とも私には怖ろしい。その底に、現世を生きる人間の深い虚無が漂う。
 この虚無こそ、つきつめてゆけば仏教の大虚無に通うかもしれない。はたして、今日の我々は閻浮提に住まい諸仏に会い仏法を聞くことが適うや否や。

出典:『閻浮提考』

評者: 中村和弘
平成22年1月31日