落葉松はいつめざめても雪降りをり 加藤楸邨 評者: 豊田都峰

 俳句は自分が詠う。ために誰でもが詠えるような内容では作る意味がなくなる。自分がよく見て、自分の持つ何かを詠いたい。
 私が私淑したのが長谷川素逝(1907→1946)であるが、「写生」とは心を写すことだ、と説いている。単なる写生、見たままの風景では物足りないものを教えられたと思っている。だから、風景の奥にあるもの、結局自分が見つけだすわけだが、それを見つけ俳句に仕立てたい、という考えが絶えず私の中にある。
 俳句に、人間を詠み込むことを学んだのは楸邨の作品に触れてからである。人間・社会などを詠み込むといってもストレートに詠み込む手法には反対である。散文ではない俳句である。物を通して表現するという俳句にふさわしい方法で詠み込みたいわけだが、この作品などは手本になると考えている。
  鰯雲ひとに告ぐべきことならず
 『寒雷』掲載昭和一三年作などはその点で有名だが、その流れの展開の一つと認識している。
 「落葉松」が擬人法を用いて詠われているが、この寂しさはいうまでもなく人間の寂しさである。しかも、その寂しさが「いつめざめても雪降りをり」とたいへん具体的に詠われている。これがなにより大切である。「いつめざめても」とは環境の変化のなさである。我々の日常性も同じである。ために人間は根底に寂しさを持っている。気付いていないだけでのうのうと生きているのだろう。私はこの人間の寂しさが詠えれば、俳句を作る意義が、あるとさえ考えている。

出典:『山脈』昭和二五年作

評者: 豊田都峰
平成22年2月21日