またの世は青磁双魚として逢はむ 恩田侑布子 評者: 対馬康子

 「俳句はあらゆる境に開かれているはずです。俳句は現実との格闘と、想像力の往復運動をエネルギーとして、三界の馬塞なき荒野を駆ける一馬でありたい」(『余白の祭』)と願う恩田侑布子という俳人は、異才と呼ぶにふさわしい数少ない作家の一人である。
 恩田は仏教書や思想書を読み込まずにはいられなかった青春期を過ごした。そして、一時は言葉に対して絶望をし、言葉のない陶芸の世界に入った。しかし、二十代、療養を余儀なくされた時間の中で、仏教哲学を根底に、俳句という詩形とふるさとの自然によって救済され、再び言葉と出会い直していったという。
 掲句、「青磁双魚」は宋の時代から元の時代にかけて龍泉窯で数多く作られてきた。青磁の小皿、中皿、大皿の底に二匹の鯉が向かい合い、陽刻され、浮かび上がり、回るように焼かれている。現実に千年の時を超え互いを求め合う姿を今目の当たりにすることができる。鯉は龍になると考えられたが、恋に身をゆだねる双魚が龍になることはかなわない。そのような愛の形をこの作品は求めている。
「客観的世界から解放されると、そこには生も死もなく、ひとは不断に流れる水のようになる。これを彼岸と呼ぶ。」(『弓と竪琴』)というオクタビオ・パスの言葉を思い起こす。
亡びの存在としての人間の悲しさ。それゆえに強く人を恋う。不滅の存在である龍ではなく、儚い命の魚になりたいという。しかしその愛の形は青磁と言う形の中で永遠たり得るのだ。描かれた「虚の実景」は、詩的予言のように無常を生きるものたちへ「今」を語りかけてやまない。俳句という器も、青磁という器のように、永遠を閉じ込める奇跡の力を持つことをこの作品は暗示する。

出典:『振り返る馬』

評者: 対馬康子
平成28年4月16日