うしろから突き落とされて滝である 大畑 等  評者: 寺井谷子

 この句を読むとすぐ
  滝の上に水現れて落ちにけり
という後藤夜半の一句が浮かぶ。「滝の夜半」と称されるような著名な一句。そのことは、作者は勿論計算の上のことであろう。逆に、夜半の句があればこそ書かれ、且つ、「面白さ」が増す。
 等作品を読んだ後、〈「後ろから・突き落とされて」かー〉、と、しばらく唸っていた。水が水を押す…、次々に後ろから押す。そして突き落とされて「滝」となる。それを、等は「滝である」と書く。滝の前に立った時に、確実に思い浮かべる一句となっている。
 何かの折にふと思い浮かべる一句、何かを見た時、ふいに浮かぶ一句というものがある。例えば「きんぽうげ」の花を見ると、
  だん/\に己れかヾやききんぽうげ   汀女
 「百日紅」というと
  女来と帯纏き出づる百日紅       波郷
  百日紅ごくごく水を呑むばかり      〃
という風に。
 これからは、「滝」といい、滝の前に立つ度に、前述の句に加えて「うしろから突き落とされて」と思い、「滝である」と、何となく胸を張るように呟くだろう。
 この句集題の『ねじ式』とは、つげ義春により昭和43年、月刊『ガロ』6月増刊号「つげ義春特集」に発表された短編漫画の題である。いわば、一種の不条理劇ともいう一篇。
〈「現在」に生き、「現在」を書く……しかし語りえぬ時間が流れている。過去なのか未来なのか。いっそ一周遅れの正確な時計でありたいものだ。〉後記の言葉を前に、ダリの歪んだ時計―これが一番正しい現実の時を刻んでいるのか―を思ったりする。

出典:『ねじ式』 

評者: 寺井谷子
平成21年4月27日