切株やあるくぎんなんぎんのよる 加藤郁乎 評者: 鳴戸奈菜

 一読、口調がよくてアラ素敵、とそれで終らせたい句だが、読んだら最後、脳裏に焼きついてしまう。なぜか。句の舞台は森か林。そこに切株がポツネンとある。わたしは一個の切株と受け取ったが、幾つかあると捉えることもできる。ただし切株だらけでその辺りは開墾地のさまと解するのはどんなものか。ところで何の木が切り倒されて残った切株か。そこははっきりしない。後に「ぎんなん」とあるからイチョウの木と考えていいのだが別の木でもいい。また歩いているのは何、もしくは誰か。「あるく」は「ぎんなん」にかかっているのか、それともそこで切れているのか、それによって歩くのは「ぎんなん」になったり作者になったりする。それとも「切株」が歩くのか。この場合「や」は切れ字ではなくリズムを整える役割を果たしていると取る。次に「ぎんのよる」とは? 皓々たる月夜か星夜か銀河の見える夜であろう。とらえどころのない句で、正確にして断定的な解釈を下すのは難しいが、にもかかわらずいろいろ解釈されて面白い。いろいろ解釈されるといっても、180度意味が変るというのでもない。45度くらいの間を変化するということだ。つまり漠然とだがイメージは固まっている感じ。その範囲で私の解は、もとは大木であったろう木の切株がある。そこへ近くのイチョウから落ちた銀杏がまるで森の小人のように楽しげに歩いている。折しも星が降るごとく明るい夜である。むろん「ぎんなんぎんのよる」の「ぎん」のリフレインが効果抜群で、もう意味などどうでもよくなる。内容はメルヘンぽいが、まことかわゆい句。

出典:『球體感覺』
評者: 鳴戸奈菜
平成22年8月1日