次の世へ蝿取蜘蛛を連れて行こ 柿本多映 評者: 塩野谷仁

 柿本多映氏の文章の中で、印象的な一文がある。そこにはこう記されていた。「私にとって書くという行為は、自己確認するためのものであ」り、それは「存在の原点に分け入る行為と同じであるという確信」があって、「存在とは命。命は死を、時空をも包含する。そこに詩の原点があると思っている」。(『現代俳句集成』・「存在の詩」より)
 鋭い身体感覚を駆使し、強い実存意識でもって、存在そのものの不条理や虚実に取り組む柿本氏の本質を言い当てていることばだとつくづく思う。なかんずく、「命は時空をも包含する」との言は、誰でもが知っていながらなかなかに到達できないことがらの一つであろう。ここに「詩の原点」を置く柿本多映氏の句業は、つねに夢と現実のあいだを往き来するようだ。
  真夏日の鳥は骨まで見せて飛ぶ   『夢谷』
  人体に蝶のあつまる涅槃かな    『蝶日』
  暗がりのあやめの舌を見てしまふ  『花石』
  音楽のはじめは月光菩薩かな    『白體』
  死ぬまでは椿のままわたしのまま  『粛祭』
 例句を挙げ出したらキリがないのだが、これらの作品は一見、夢幻の世界を彷徨っているように見える。だがその根底には確たる〈実感〉があることも見逃してはならないだろう。なぜなら、その認識の根底には「存在への自己確認」が行われているからだ。「骨まで見せて飛ぶ」鳥も、「暗がり」に「あやめの舌を見てしまふ」のも、あくまでも詩人のことば。
 掲句、「蝿取蜘蛛」という題材に、一読、納得させられた。こういうことばを選択できるのも資質の一つ。「次の世」へ行く時、わたしも「蝿取蜘蛛」を連れて行こうと思う。

出典:第五句集『粛祭』
評者: 塩野谷仁
平成22年8月21日