桃の花死んでいることもう忘れ 鳴戸奈菜  評者: 塩野谷仁

 鳴戸奈菜という作家はつくづく言語感覚に優れている人だと思われてならない。自分の思念や情念、ひいては自分の身体感覚で捉えた世界を、ことばの持つ想像力を駆使して軽やかに表現する。このこと、掲句では、あの艶やかで濃厚な「桃の花」に配するに、「死んでいることもう忘れ」るという、自分の思念を書き止めた。この句の場合、「死んでいることもう忘れ」はもちろん現実の「死」ではありえない。桃の花を目の前にして(あるいは桃の花ということばに感覚を動員して)作者はしきりに思いに耽っている。その濃密な時間、そのことが作者にとってはある種の「死」そのものなのであり、次の瞬間、その死は「もう忘れ」られることになる。軽やかに書かれながら一つの思いを見事に書きとめた一句、と思われてならない。このことは次なる作品からも窺えよう。
  花茨(うばら)此の世は遠きランプかな 『イブ』
  天の河ひとりの時はふたりなる     『天然』
  青大将殺してだるき日の丸や      『月の花』
  さざなみのからだにおよび沼九月    『月の花』
  春の空軽石ごときもの浮かび      『微笑』
 一句目、そこはかとない思念に浮かぶ「此の世」はやはり「遠いランプ」なのであり、二句目、あまねく広がる「天の河」の下ならば、「ひとりの時はふたり」になってしまうことだってあり得ると納得させられてしまう。「春の空」ならば「軽石」が浮かぶことも想像の域内。それもこれも、鳴戸奈菜氏の思念が捕らえた風景。それだけに説得力がある。
 鳴戸氏はこんなことも書いていた。「伝統的な俳句形式を尊重しながらも、(略)現実と非現実がどこかで一体となっているような句」をと。掲句にその思いを見ている。

出典:『微笑』
評者: 塩野谷仁
平成22年9月1日