花冷のちがふ乳房に逢ひにゆく 眞鍋呉夫 評者: 前川弘明

 この句に初めて逢ったとき、心臓がぞくぞくした。なんという甘酸っぱさだろうとおもった。想像は蜜のように甘く、引き潮のように苦い。この句の主人公は何歳ぐらいだろうか。おそらく中年を過ぎているだろう。妻子もあり、分別もあり、ほどよく安定した人生を歩んでいるだろう。なんの不足があるものかとおもう。しかし、時は桜咲く花冷えのころである。辺りは、いちめん桜の色に染まろうとして優しい風情だが、寒い。なぜか心が冷えるのだ。かりそめでない、嘘でない、生きている人の根っこの本気のところを自分は知らないのではないだろうか。その本気を知りたい。それが欲しい。たとえば、まだ知らない(或いはかねて知っている)違う乳房に逢いたい。きっと、いまの自分と同じように花冷えしているだろうその乳房に逢いに行こう・・と、罪の影を背負いながらも本気の幸せを求めに行くのだろう。「ちがふ乳房」という甘美さと罪悪感が絡み合った客体は、「花冷」の語のもつ浄化作用によってかぐわしく透明になり、神々しささえ感じられてくるほどだ。
 取りようによっては、この句は実にきわどい。違う女の乳房に逢いに行くというのだから、あからさまな不倫の句といえるだろう。だが、綱渡りするようなこの危うさは、純粋で新鮮な気持ちを大事にしたいというおもいの発露ではあるまいか。
 さてぼくは、この句をもっともらしく解した気がして、胸の辺りがもどかしい。
 実際ぼくが眞鍋呉夫俳句に感じるのは、理屈や常識やらを削ぎ落として、いつも無意識の中を自由に遊泳している姿である。そして、その自由な遊泳から浮かび上がるのは、妖しくも艶冶な幻想を伴って創造される命の有りようである。

出典:第2句集『定本雪女』
評者: 前川弘明
平成23年3月11日