バスを待ち大路の春をうたがはず 石田波郷 評者: 山口木浦木

 平浩二の往年のヒット曲に「バス・ストップ」がある。「バスを待つ間に泪を拭くわ」で始まり、バス停を絡めた人間ドラマが描かれている。作詞家の視点が面白い。
 波郷の句は人間ドラマではなく自然の移り変わり(春の到来)をバス停で確信したのだ。春の訪れを詠った俳句は多いがこの句は傑出している。訪れを確信した場所がバス停というのが面白い。「大路の春」の「大路」も効果的だ。それによってあらゆる場所での春の到来が想像される。
 大路といえばやはり京都市の「都大路」だろうか。全国高校駅伝は毎年一二月に都大路で開催される。駅伝のテレビ中継を観ていると「駅伝や大路の師走疑わず」となる。
 停留所でバスを待ちながら春を知ったのである。電車などと違ってバスは道路事情で定刻通り来ないことが多い。「電車待ち」とは意味合いが異なる。待ち合わせ時間になかなか来ない人を待つ心境にも似ている。仮にバスが定刻通りに来る乗り物であれば、この句の良さが損なわれるかもしれない。
 時間通りに来ないバスを今か今かと待っている間に、五感が研ぎ澄まされて「大路の春をうたがはず」となるのではないか。味覚を除くと、例えば視覚的には春光、聴覚は鳥の囀り、嗅覚は沈丁花の香り、触覚は春風が挙げられるだろう。
 待ちわびる対象として「春」と「バス」をオーバーラップさせているのが、この句の真骨頂と言える。
 恥ずかしながら、ずっと作者名を知らずにこの句を覚えていた。その後確認したら石田波郷だった。「さすがに波郷さん」という感じである。
 
出典:『鶴の眼』
評者: 山口木浦木
平成25年3月1日