なんという運命ぞ山も木も野分 細谷源二 評者: 鈴木八駛郎

 昭和16年、細谷源二は新興俳句弾圧事件に巻き込まれ、2年6ヶ月余の拘留生活の、東京拘置所を出獄したのが、18年6月であった。当時は本土空襲や東京大空襲が始まるときであった。終戦の年の7月14日、源二、父母、妻、子供2人の一家全員が、上野駅から、北海道開拓移民団53世帯の一家族として未知の北限の地に足を踏み入れ、過酷の開拓の暮らしが始まったのである。
  地の果てに倖せありと来しが雪
 開拓地として移民団を待ちうけていたのは、北海道の東部に位置する、十勝の国豊頃村小川部落であった。源二一家に割り当てられたのは、泥炭地の雑木地で、電気も無し、川の水を飲み、一時凌ぎの小屋の苦難の生活はでん粉団子、燕麦が常食であった。
 農地として適さない泥炭地を、村長に懇願し防風林の7町5反と交換、冬は鼻毛凍りつく零下30度の過酷な苦行と、貧困の日々を生き抜いたのである。
 この苦労話が「北海道新聞」の「北海道新風土記」に掲載され、源二の居所が判明し、昭和22年の春、隣村の池田神社の俳句大会に土岐練太郞の勧めで参加している、私も復員したばかりの時だったが末席にいた。
 土岐練太郞や山田緑光らの奔走により、その年の10月、砂川の東洋高圧の旋盤工として入社し、「北方俳句人」創刊に携わり、「東洋俳句」を「氷原帯」と改題主宰し、北海道の俳句革新の先達として活躍したのである。
 昭和43年10月26日、現代俳句北海道地区会議が設立され細谷源二が初代議長に選任された。戦争と人間、戦後の疎開地の開拓の歴史の記録である。
 豊頃町二宮生活館の前庭に表記の作品の句碑が建立されている。
 
出典:『泥んこ一代』春秋社刊(昭和42年5月10日)
   『北海道開拓史』木村敏男著(昭和53年5月20日)
評者: 鈴木八駛郎
平成25年5月21日