薄なびく機罐車が曳く四十輌 加藤楸邨 評者: 鈴木八駛郎

 加藤楸邨ほど旅の足跡を残した人は少ない。人間の存在の確認と、自己発見をおこなった俳人である。奥の細道紀行、隠岐紀行など、句集作品ほとんどに生きる原点をさぐるための旅の作品が集録されている。
 旅は未知の土地、自然、人間と対峙することにほかならない。それは人間と自然との感応であった。この作品は第七句集『野哭』昭和二十三年二月十日刊行に掲載されている。国破れた昭和二十二年八月十二日、戦争がもたらした傷跡を身に刻んだ、混乱と焦燥のなか北海道を訪ね、十勝に立ち寄っている。当時の狩勝峠は、山腹から九百五十四メートルのトンネルを抜ける急勾配を登るとき、機関士が蒸気機罐車の石炭灰と黒煙を吸い込むため窒息死する事故も起きていた。
 戦後の食糧不足を補うための食糧生産地十勝の農産物や、電力生産の石炭を運ぶ貨物列車は、政府の強制的な政策として三十五輌とされていたが、D51が配置された後は四十輌程で前後に機罐車を付け峠の難所を越えたので、喘ぎながら登るうねりくねった勾配で、後尾の機罐車がみえたのであった。この過酷な労働にたいし三割減を政府に要求し、労働条件要求闘争がはじまった。日本占領政策下の国鉄労働争議となり逮捕者が出た、戦後の歴史を刻む峠であった。
   花さびた十勝の国に煙たつ  楸邨
 昭和四十二年八月十九日に金子兜太が来勝の折り、次の作品を詠んでいる。
   十勝野の真昼とつぜん雄牛見え  兜太
   しみこむ影は唐黍の精十勝の家
 加藤楸邨は旅について自己発見の場であり、作句態度は、「歩行的思考」を軸に置いた人間探究の作家であった。心に刻むべき言葉である。
 
出典:句集『野哭』、加藤楸邨読本
評者: 鈴木八駛郎
平成25年6月1日