十勝野に我立つと四顧の霞かな 河東碧梧桐 評者: 鈴木八駛郎

 河東碧梧桐が正岡子規没後、日本全国遍歴を志して東京の寓居を出たのが明治三十九年八月六日であった。東北の各地を経て、翌年の二月二十五日、夷の国、函館に旅の足を踏み入れ、蝦夷地の旅がはじまった。翌日海上を渡り釧路・根室に至り約一ヶ月ほど滞在し、四月九日に釧路から、汽車に乗って十勝の国、帯広に着き、休む間も無く荷馬車で狩勝峠を越えるのであったが、雪解の路は、泥んこの泥濘は荷馬車の車軸までも埋め尽くすほどで、難行苦行、日が暮れて馬も馬士も疲れこれ以上は無理、宿を探すしかない、遠く深夜の闇の一点の灯火を目指し辿り着き一夜を乞い、翌日狩勝峠を越え落合に着いた。
 当時は帯広―落合間はまだ鉄道がなかった(この年の秋開通する)。この難行苦行は、『三千里』講談社刊の紀行文に掲載されているが、この難所の部落こそ、私の生地、御影村(当時は芽室村)である。
 この作品は、『三千里』には掲載されていないが、十勝の印象を「果ても境もない厖然たる十勝の国平らの真中に指で摘まんだほどの家が有るばかりである。 ―略― 雲烟漠々として千里万程山もなく水も見えぬ。大気を呑吐して、ただ大きい霞かなと嘆ずる」の記述からして、この時の作品と思われる。
 私はNHK松山放送局の「BS俳句王国」(平成七年十月七日)に出演のため金子兜太、嵐山光三郎氏らと訪れた折り≪子規記念館≫を訪れ、展示されている墨書された作品を観覧する事が出来たのであった。
 碧梧桐は、昭和二年に再び来道し、七月二十七日に帯広に来ている。その時は十勝の奥地、然別湖を訪れ、湖畔の駅亭でイワナの刺身で食事をしている。
  狐吊て駅亭寒し山十勝
 この作品が、短冊に墨書表装されたものを私が所蔵している、俳縁の不思議さ、俳句は土地と人間の歴史を創刻している実感を噛みしめている。
 
出典:『三千里』講談社刊

   松山市「子規記念館」所蔵

評者: 鈴木八駛郎
平成25年5月11日