夢醒めて冬日の藁でありしかな 松林尚志  評者: 安西 篤

 最新句集『冬日の藁』の表題とした句。著者四十三年ぶりの第二句集だという。数々の著書をものしておられる碩学のイメージからは、信じられないほどである。
 筆者は、海程創刊の年の四号で、阿部完市、松林尚志氏とともに同人になった。しかし、その後のお二人の活躍は目を瞠るばかりで、遥かな畏敬の思いで遠望してきた。
 著者自身は〈あとがき〉で、「私は軸足が定まらず、大方は実感を手がかりとして、律義に自己表現に執着している」という。もちろんこれは謙退の辞であって、初期の「暖流」時代に培った豊潤な叙情がベースになっていることは紛れもない。その知性と時代感覚が海程にも向かわせたのだが、基本的軸足がぶれていないことは本句集によっても裏付けられる。〈あとがき〉に続けていう。「最近の俳句は仕上げの巧みさや俳諧的な面白さに向かっていて人間が見えにくくなっている。叙情に根ざした自己表現はやはり文学の原点だと思う」。まさに著者の自恃を表白するものにほかならない。
 それにしても、掲句のひそやかな境涯感はどうであろう。自らは「これまでが、いろいろと手を出しては挫折感を味わうという歩みだったことと晩年意識を重ねた」というが、華やかな俳壇的活躍こそなかったものの、多くの著書が物語るように、一つ一つの仕事を丹念な成果として纏め上げてこられた足跡は、知る人ぞ知る輝かしいものだった。むしろ「冬日の藁」には、なすべきことをなした充足感こそふさわしい。
   人間もまた遺失物日向ぼこ
   幾鉈をうけて仏の笑み給ふや
   春雷や影の男がたたら踏む
 この一連に見えてくる人間存在の本源的淋しさのようなものが、おそらく氏の叙情の根底にあって、慈顔のような人生観照に結びついたように思えてならない。

出典:『冬日の藁』

評者: 安西 篤
平成21年7月1日