日の暮に人釣っており浦島草 前田吐実男  評者: 安西 篤

 句集『鎌倉抄』所収。その〈あとがき〉で作者の俳句観を述べている。「俳句には、その言葉を越えた筈の感性を表現するのに、その越えた筈の言葉に頼らざるを得ないという矛盾がある」と。何年か前に著者が講演で、〈非人称〉の俳句という話をしていたが、そのとき、この「矛盾を越えた」ところに、個我を消した〈非人称存在〉が表現されるといっていた。つまり、言葉と感性の矛盾の自己統一を果たしたとき、個我は消えて何人称にも鑑賞できるような客体化されたものになるというのだ。その具体例として金子兜太と松澤昭の句を取上げていたが、それぞれの代表句よりも、次のような句にピンとくるものがあった。
  とりとめもなし無住寺のごきぶり    金子兜太
  行きあたりばつたり跳んで道をしへ   松澤 昭
 これに作者の掲句を並べると、発想の根に共通するものを感じさせる。書かれているのは客体化された景だが、そこには作者の感性による見立てが働いている。その見立てが「とりとめもなし」であり、「行きあたりばつたり」であり、「人釣っており」なのだ。だから一人称のようにも二人称のようにも三人称のようにも見えてくる。しかもこれらは、いずれも決して晴の句でなく褻の句である。ごく日常的な表情を、作者の感性によって意味の位相転換を行っている。
 掲句に即せば、浦島草の長く垂れ下がった奇妙な棒のような花が、釣糸のように人を誘っているという。花の姿そのものに違いないのだが、「人釣っている」と見立てたことで、花の持味がどことなく諧謔味をもった表情になり、しかも「日の暮」がその表情を濃くする。作者の見立てだから一人称の句といえるが、客観的に書いているところは三人称でもあるし、なにやら誘う感じは二人称ともいえる。どの人称で読むかは、読者自身に委ねられているのだろう。

出典:『鎌倉抄』

評者: 安西 篤
平成21年6月21日