麦こがし人に遅れず笑ふなり 桑原三郎  評者: 伊東 類

 麦こがしなんて食い物は、小さな子どもが十円玉かそこいらをつかんで、駄菓子屋へ駆け込んでいって買い求めるような庶民のお三時というものではなかったであろうか。ほんとうにそんなものであったと思う。その駄菓子屋も今は無い。十円玉つかんでもそれで口に入るものはほとんど無い。ましてや、小さな子どもが走っていない。みんないっしょに喜び、悲しんだ時代であった。人より先に何をやろうだの、追い越そうだのと思う不埒な輩は居なかった。人への優しさがあった。
 作者の桑原三郎は句集『不断』の帯で、以下のように言う。「誰でもしていること知っていることを、誰でも知っている言葉で普通に俳句する。私はこれからもそんな俳句作りをしていきたい。」
 桑原俳人の求める俳句は、本当の意味で誰もが楽しむことのできる俳句かもしれない。
   日々草やりたいことと出来ること    桑原三郎
   死ぬまでと生きてゐるうち明易き
   一つ家に神仏祀り風とほす
 などを見ても、下々の一日一日の生活、生きることへの精一杯のその中で、やりたいこととできることしかないことへの愛着を垣間見る。「人に遅れず笑ふなり」とは皮肉なところかもしれないが、共存共栄の精神でもあろうか。
 俳句は庶民の文芸である。庶民がどれほどの階層を指してのことは定かでないが、決して庶民の文学、文化などではない。それは江戸時代であっても、現代であっても同じである。俳句は紙と鉛筆があれば書ける。ところが俳句は、座を囲む。囲むためにはお金が要る。昔からそうである。何ら変わっていない。お金を生活以外に出費することは江戸時代であってもたいへんなことであって、そのために頼母子講などの金融組織が存在して、大きな要りの時は用立ててもらうことができた。共存共栄であり、庶民の文芸であることは確かである。
 21世紀は、「誰でもしていない知っていないことを、誰でも知っていない言葉で普通でなく俳句する、」何とも難解な困難な時代である。

出典:『不断』

評者: 伊東 類
平成21年7月22日