花林檎まばたきしつつ牛生まる 照井 翠 評者: 後藤昌治

 私の見たことのない光景である。林檎の花は晩春の頃、白色の五弁の花を開き、蕾はピンク色をしているという。さぞ清澄な感じのするものであろう。作者は岩手県の人である。
 一昨年私は、所用で青森から岩手へ回る小さな旅をしたが、生憎と暑い夏の最中のことであった。林檎の花の咲く頃は、恐らく朝夕やや冷えるが春の気持よい佇まいの中であろう。さて、この句の重要な視点は「まばたきしつつ牛生まる」である。当然のことながら牛の出産は見たことはない。牛か馬か憶えがないが、テレビ映像で、生まれ出る瞬間の神秘的、感動的な光景を見たことがある。
 さて、「まばたきしつつ」ということはどういうことなのであろうか。母体からこの世へ現れ出る子牛がまばたいているのであろうか。そうであったらこれはまさに大感動物である。ましてや林檎の花の咲いている舞台背景であるのだ。こんな瞬間に、こんな感動に立ち会ってみたいものだ。生命感あふるる時間と空間なのだ。あらゆる世情の混沌も、喧騒も、そこには存在しない世界なのである。
 作者は初学より故加藤楸邨に師事し、「現代俳句協会新人賞」を受賞している。俳句の目標を、「豊饒なる沈黙」と掲げているが、まさにこの句などは、それに近いものであるように思われる。

出典:第二句集『水恋宮』平成13年刊

評者: 後藤昌治
平成22年5月1日