火の奥に牡丹崩るるさまを見つ 加藤楸邨 評者: 大牧 広

 この句には長い前書がある。それを書く。「五月二十三日、夜大編隊侵入、母を金沢に疎関せしめ上州に楚秋と訣れ、帰宅せし直後なり、わが家罹災」
 この「火」は当然焼夷弾による炎上させられた火である。紅連の炎の中に崩れてゆく牡丹、もしこれが人であったらこの世の最後の悲鳴を挙げたであろう。それも叶わず黙って焼かれていった牡丹、私はこの牡丹を作者が人間をイメージして詠んだような気がしてならない。何の罪もない一般国民があの忌わしい業火の中で命を落さなければならなかった時代。この国民の呻きを牡丹に託して詠んだと思えてならない。
 この罹災の翌日に楸邨は、 
 五月二十四日
  雲の峰八方焦土とはなりぬ
  明易き欅にしるす生死かな
 の二句を詠んでいる。
 当時の心ある詩人ならば詠んでおかねばならなかった体験であった。それを良心にもとづいた作家活動をしていた加藤楸邨が詠んだということである。
 ふたたび掲句にもどるが、この句からは、さまざまな点に思いが至る。そのひとつに、この句の持つ諦念的な反戦感がつたわるということである。戦中は自分の命を自分で守るためには何も言えなかった。同じ楸邨句に<蟇誰かものいへ声かぎり>があるように国家の言論統制による国民の閉塞感は今の北朝鮮以上だったかもしれない。
 なんとも訳のわからぬ現代が、戦争好きの人の危険な動きは着実に増している。私達は、この悪性新生物にもっと敏感になってよいと思っている。

出典:『火の記憶』昭和23年
評者: 大牧 広
平成22年5月11日