粽結う死後の長さを思いつつ 宇多喜代子 評者: 大牧 広

 「死」をこのようにあっけらかんと詠んだ俳句を私は余り知らない。「死」は絶対的であるゆえに人々は半ば恐れて内側へ入りこもうとしない。永遠に無になることが「死」であることを判っていても一定以上を踏みこもうとしないのである。怖いからである。
 掲句はその点をすこしの澱みもなく明快に表現していて凄いと思う。
 粽の紐の長さと死後の長さ、言えばその辺りの比較の意外性を措辞している、となるのだが、私にはそれよりなによりこうした句を詠む宇多喜代子という存在の重さに瞠目するのである。このようにあからさまに詠むことによって、どうしても来る筈の「死」への恐怖を溶解してしまおうとする心情が見えて、「勇気の俳句」として私には在る。
  松の芯ときに女も車座に
  天空は生者に深し青鷹
  水の魂つらねて跳ねる雪解川
 これらの句にも何の晦渋も見られない。きびきびとしたペン運びのみが感じられるのでる。実はその辺りに宇多喜代子という大きな俳人の存在感がある。
 たとえばこの句、
  愚直なるべし愚直なるべし初燕
 自分に言い聞かすような表現、こう詠むことによって、決して軽挙な行動はすまいと自らに念を押しているように見える。
 さて、掲句の上五の「粽結う」、この生活感こそが、いい意味の愚直で死後の長さを誠実に考えていることの証なになる。
 この句に接すると死後にも青空があるのではないかとさえ思うのである。

出典:『象』平成十二年
評者: 大牧 広
平成22年6月1日