暮の春佛頭のごと家に居り 岡井省二 評者: 長峰竹芳
所属する雑誌の現代俳句月評でこの句を書いた。月刊誌「俳句」の昭和六十年七月号掲載作品である。この作者には難解な句が多い。ひと言で言えば深遠であり、言葉の意味を一つ飛び越えないと理解しにくいところがある。
金剛界・胎蔵界一如の空色空蔵螺旋曼荼羅。これが無常・造化に代わる生命思想、哲学-と岡井省二は述べ、師の森澄雄は「現俳壇で俳諧を試みているのは岡井省二」と指摘した。「俳諧は遊戯(ゆげ)の器」というのも一つの思想に違いない。
この句はわかりやすい。すぐに興福寺国宝館にある薬師如来の頭部を思った。飛鳥の山田寺の本尊であった薬師如来の頭部が興福寺に存在しているのは、文治年間、平氏に焼き打ちされた興福寺再建のため、同寺の僧兵たちが混乱に乗じて山田寺から奪取してきたからだという。仏徒にあるまじき暴挙だが、事実はどうであったろうか。国宝館では最も古い白鳳時代の名作で、混乱の世を潜って来たにしてはふくよかで楽しげな表情をしている。
この句の「佛頭のごと」は、ぽつんと存在する物質的な把握であり、一個の彫刻品として自他を超越している。すべてを否定したあとの存在を考えれば、佛の頭も自分の頭も相等しい。春が終わろうとするある一日の自分に、永遠の佛頭を重ね合わせたのであろう。
出典:『有時』
評者: 長峰竹芳
平成22年9月11日
平成22年9月11日