大花野ぼくの臓器(オルガン)鳴りました 安西 篤 評者: 川名つぎお

 草花の咲き乱れる広野と「ぼくの臓器=内臓」いっさいが悦びそよぐ。共時的に個人史の流れの思い出、記憶、歴史など、絶対の個の無意識界にまで及んでゆく意思表示がシンフォニーへ、と。しかもどこか明るく、どこか寂莫とした深層構造を併せ持つ。この硬質感は常に精神を集中した自己の本性とのあらがいであったか。その緊張のなか、次に起る事象に備えた心的状態、もしくは放出状態となって書かれていた。
  内臓のような目でみる牛蛙
  久に雪皮膚が象(かたど)るわれ在りぬ
 この二句にしても自身の世界におりていった気配から仮託される何かを具象化しようと試みる。と言えば抽象化された内面世界こそが記号としての文字に形象化されたと断じたくもなるが、一転、多様性を表示しつつも名詞に具象感を持たせたアクチュアルな世界像を構築していたのだ。
  刈田とう個室に銃声が届く
  白楊(どろ)芽吹きわれら草魚の流れかな
 いずれも外的条件を起点にして書き起こす手法をもって途中感覚に焦点を結ばせてゆく。前句は現代日本の国際的、社会的、政治的に生活環境が凝縮されきって、作者も読者もゆさぶられる。後句では、その一人一人の血縁から系譜へと、あざやかに書きこまれた。「白楊」も「草魚」も、その出自は隠しようもなく照射されてゆく。展開する、われらの流れにスポットを当てるのも知らしめるのも詩的現実の創作であり、新しいポエジーの発見であろう。「臓器(オルガン)鳴りました」が非日常を語る口誦、口語体として我らになじむまで永く無伴奏ソナタのまま、夕べひとり聴くのも同時代のリズムのなかにある、と語るべき。

出典:『秋情(あきごころ)』(角川書店・平成19年)
評者: 川名つぎお
平成23年1月11日