ついに雨が似合う背中となっている 前田 弘 評者: 川名つぎお

 読みは共示的・多層的。ついに何事か為しとげた人の姿を、自らに引きつけ、かつ自画像として書ききってもいる。現在『現代俳句』誌の編集長として辣腕をふるうことが、あらかじめ予測しえた前田俳句の全方位風な態度となって現われた、と言えよう。
 「雨が似合う背中」に至る経路は、かなり以前から保障されていたのだろうか。
  生国の蓬に食われそうになる
  地吹雪の中亡き友となぐり合う
 前田弘の少年期から青春期を内在する、基底の構成であり、青春が生涯の財産になるかならぬかの瀬戸際を歩んだフレキシブルな時空をあびてきたのだ。蓬に「食われそうな」地域と時代と、今は亡き北国の「友」となぐり合えた至福の時と。かくも明白に過去史が語られた句集を編んだ俳人も稀だが、その表出する素朴なボキャブラリーも稀である。この文脈の未来に、かろやかなリズムと表意性が前田俳句に展開。が逆も真なりで深化した現象は、時に抽象化しても顕われた。
  人喰って来し短夜の顔洗う
  影として遠浅を来る秋の人
 などはあきらかに自身の姿を客体化している。「人喰って」には、むしろ痛手や苦渋さえもよぎる。遠浅を来る人は「影」という。どういうことだろう。この一点を通過しなければ前田像の「雨が似合う背」は、成立しなかった、のでは。言いかえれば、突き放した表現によって初めて歳月をあびてきたことを伝言しえた。「ついに」と副詞のうち最も複雑な、とうとう、やっと、しまいに、いまだ、の、ただならぬ過去を押し立てて、決して自分では確認不可能な、わが背中を眺望する時制に入ったと思われる。

出典:『まっすぐ、わき見して―』(揺藍社・平成18年)
評者: 川名つぎお
平成23年1月21日