階段が無くて海鼠の日暮かな 橋 閒石 評者: 杉野一博

 階段は上下への通路である。それが無い。
 また、階段の上は普通明るいが、その下はどんな階段でも暗い。その暗さが無い。
 移動する方法のない明るさ。そこに海鼠が曝されたのである。
 海鼠は、浅い海から深海まで、所によって生息する深さが違うが、日中は岩かげや砂の中に隠れ、夜になってから活動する習性である。夜行性の動きが陸上の鼠に似ていることから海鼠と書かれたとの説もある。
 その海鼠が、移動する方法のない明るさに曝された。多くの触手があるがのっぺりした形状で、その時の表情をうかがうことが出来ないが、どんなに困惑したことだろう。
 本来そこに居るべき場から 別の異質の場に出された小さな存在の驚きとかなしみ、それが立ち昇ってくるが、この句にはもうひとつ仕掛けがある。
 日暮。海鼠にもやっと安住の暗さがやってきたように見えながら、それはまた夜を経過して日中の明るさにつながる不気味さを帯びている。
 階段の無い状況へまた曝される反復の動き。よそから見れば滑稽とも思える存在のかなしみ。それが惻惻と沁み通ってくる。
 閒石には次の言葉がある。<洋の東西を問わず、ひろくウィットとユーモアに関わる場では、例えば劇における道化の存在にしても、その意味の表裏重層する深みには汲めども尽きぬ趣がある。>『俳諧余談』。
 最後に橋閒石に連らなるひとの見事な随伴の句を抽く。

  なまこなまこ誰が蠟燭買うて来た  柿本多映『粛祭』

出典:『和栲』
評者: 杉野一博
平成23年5月11日