われ遂に富士に登らず老いにけり 川端康成 評者: 松下カロ

 富士山が世界遺産に加わることとなった。今夏は例年に増して多くの登山者がこの美しい山を訪れることだろう。富士を詠んだ句は数多いが、これは異色の一作。川端康成の小説『山の音』(1954年)の主人公の心をよぎった遠景の富士である。季語もない、溜め息のような一行に、ゆくりなく呟かれた富士は、川端文学の扉を開く鍵となる。
 老境にさしかかった会社役員、信吾は、息子の若い妻、菊子に惹かれている。菊子もまた優しい舅に心を許す。物語には、様々な小道具、仔犬、蝉、鮎、向日葵などが配され、二人の心理の微妙な揺れが描かれる。富士山は、その象徴的アイテムの一つ。
 義父と嫁の間に通う思慕は美しいが危険でもある。ある晩、信吾は、明媚な風景の中で若い娘を腕に抱く夢を見る。翌朝、彼の内的視野に現われたイメージは富士であった。
   われ遂に富士に登らず老いにけり
 「ふと浮かんだ言葉だが、意味ありげに思えるので、くりかえしつぶやいてみた。」(『山の音』)
 登らない(登れない)富士とは何だろう。清麗な山との永遠の距離を詠んだ一句は、二十代の作品『伊豆の踊子』以来、川端が追い続けた無垢な少女への執着に繋がる。富士は聖なる、そして禁忌の場所だった。十七文字はこのような役割を負うこともあるのだ。
 川端康成は『雪国』で文名を馳せ、戦後も『みづうみ』『千羽鶴』などを旺盛に執筆、1968年ノーベル文学賞を受賞した。文字通り山頂を極めた作家は、四年後、自ら命を断つ。原因は不明だが、身辺にいた少女への失恋があったとも・・・。川端の富士は、其処に在るが、同時に何処にも無い、夢の中の富士だろうか。
 
出典:『山の音』
評者: 松下カロ
平成25年7月1日