白鳥の正面という妙な位置 宇多喜代子 評者: 大畑 等

 宇多喜代子の俳句の特徴は句が生まれる現場を強く感じさせるところにある。更に言えば、作者と対象の接触面から句が立ちあがってくるアクチュアルな感覚に満ちている。この句の「白鳥の正面」が「妙な位置」、これがそうなのである。通常、正面を「妙な位置」とはとらない。字義通りにいかないところに、潜在的な生命の不思議さ、「在る」ということの不思議さに驚いている作者が見えてくるのだ。
 柳田聖山と河合隼雄が理由あって、京大の入試問題をタクシーに積み込み、入試会場まで運んだ話を思い出す。鴨川にさしかかったとき鴨を見た柳田は「河合さん、どうして私は私で、鴨は鴨なんでしょうね」と呟いたそうな。河合がどこかで書いていた件を思い出す。河合は書いていないが想像するに、柳田には一つ「生命」が類・種にわかれ、そして個(の意識)にいたった不思議、私が「在る」、白鳥が「在る」という不思議を言いたかったのだろう。
 「白鳥の正面」であるからこそ感覚された「妙な位置」。普段はあたりまえに、飲み、食い、話し、笑い、歩き、そして眠る<私>。しかしそれを意識してとらえようとすると、意識ではとらえきれない何か、おおいなる残余を感じてしまうのである。いくら問うても答えなぞありはしない「妙な位置」。形而上学では「存在論的差異」や「生命論的差異」と言うであろうその問いは、両者が向き合うその「正面」、接触面で身体的にとらえられる、感覚されるのだ。
 
評者: 大畑 等
平成25年6月21日