国生みのごと御不浄の初明り 高橋修宏 評者: 谷口慎也

 最新句集『虚器』(2013年)の巻頭を飾る一句である。同時に、これまでの句集『夷狄』(2005年)『蜜楼』(2008年)をも包括する、彼の代表作でもあろう。個の感慨を述べるに慣らされてきた俳句形式が「国生み」という大いなるテーマを与えられながらも、その短小な詩形の中でみごとな韻文として自立していることに注目したい。
 〈初明り〉のめでたさに慣らされてきた私たちの心性は、まず「国生み=御不浄」の意味的な喩に驚かされる。同時に、一方でそれは私たちの脳裡に古代の国生みの神話、例えば記紀の世界、等を想起させる。〈御不浄〉という日常に欠かせない現実(現在性)が、時空を超えて〈国生み〉という歴史的事象と共に複合化され、統括されるのである。この小さな形式に、遠い過去と現在が融合され、響き合っているのである。
 この句集には、高橋の駆使する詩的喩法によって、古代から近・現代までの多岐にわたる歴史的事象(とその闇)が、現在只今の私たちにあるテーマ(課題)を投げかけているが、これを新たなる「寓意の世界」と名づけることができよう。
 そして次は簡略化して言うしかないが、彼がより独創的なのは、そういう事象を列島弧を貫く「虚」(空虚・空洞)と見ていることである。特にそれは「国家」や「天皇(制)」をテーマとするときに顕著である。彼はそれらを、文学という虚構において「実」にするわけであるが、その喩法はこの「虚」と「実」とに絶えざる循環性を持たせている。そのことによって彼の一句は、単なる過去の記憶や事象の記述ではなく、現在只今を生きる私たちの言葉となり得ている。
 
出典:『虚器』
評者: 谷口慎也
平成26年3月1日