雪降ると兎の風船だけが赤 加藤楸邨 評者: 神田ひろみ

 雪国に山賊と称して旅宿を開いている伯父がいて「へええ、楸邨さんのお弟子になったのか、そうだ、楸邨先生に泊まりに来てと言ってくれや」と言うのだった。
 「山賊?」、楸邨先生は面白そうに目を動かした。正気づいたとき私は先生夫妻と上野駅に立っていた。
 昭和58年3月12日、13日のこの旅のことは楸邨生前最後の句集『怒濤』「雪国行 十句」として詠まれ、その十句目が掲句である。旅の間中私はしゃべりっぱなしであった。先生の宿の浴衣姿に「きゃあ、先生山下画伯みたい!」、「火のカンナ火のシベリウス断続す、っていう先生の句すごいですよね、カンナ屑が火にめらめらしてるんでしょ」等等……、先生は真面目な顔で「そうです、僕どもっていたことがあるんです」、カンナ屑説については目を上の方へあげ聞いていらした。先生と山賊は夕食をとりながら西脇順三郎や良寬の手毬や宮柊二さんについて語らっていた。翌日は「先生持ってて」と十二講様(魚沼の早春の農具市)で買った赤い大きな風船を持ってもらう仕末、今私が真剣に楸邨論に取り組んでいるのは全くこの二日間の旅の反省、先生への詫び状に他ならない。
 列車が越後湯沢駅を出るとき淡い春の雪がふってきた。このへんでは、たびら雪というんですよ、と誰かが言った。「ああ、かたびら雪ね」先生は満足そうに肯いた。
 終わったような終わらないような旅の中に、いまも私はいる。
 
出典:『怒濤』
評者: 神田ひろみ
平成26年2月21日