被災地とおなじ春寒いや違ふ 仲 寒蟬 評者: 堀本 吟

 いまの季節にはずれるが、スパッとは切れない現実をスパッと言い切ってくれる。この句、リアルタイムを言い切る鮮やかさと調べの勢いが抜群。屈託ない否定の口語がすごく効いている。たくさんの震災俳句と同じ?(いや違ふ)、頑張ろうニッポン!?(いや違ふ)。
 句意。「春といってもまだ寒いな」、と少し身震いなどして、「東北(のことだろう)もおなじ寒さだろうよ」、とチラリと思う。しかし(いや違ふ)、やっぱりあっちの方がたいへんだ。
 こうした瞬間の自問自答と断定で句を立体的にしてゆく。「春寒」は、地域の季感の違いのみでは、作者の真意にそぐわない。経験した人に対する経験しなかった者の隔靴掻痒の気配りをいいたいのだ。「おなじ」はずの寒さをより深刻に感じる(させる)、その同情や共感シンパシィが「春寒」の「表現」を呼び寄せたのだから。「春寒」は、被災地と自分の場所をつなぐ共感としての「季語」、の役割から、翻って自分独自の皮膚感覚や心理的な彩を帯びた自分の現在への「季語」となる。
 同じ作りの句がある。〈流氷の一つが祖国だとしたら〉〈気がつけば頭上に国家雪催ひ〉と、普段の寒い日にいきなり「祖国」とか「国家」が登場。しかも、この内面の国家は姿が曖昧で溶け易く消えやすい。自分の思う「国家」と一般概念でのそれとすこしずれているようだ。
 これらの句はどれも意味明快であるのに、反面、世界像があんがい不安定で、曖昧であることをいい表す正確な言葉がない。その困惑を皮膚感覚を呼ぶ季語で代用している。ために単なる日常詠というふうには読み切れない。現場をはなれた日常人には。いつもいつもは同じ強度の共感を傾けにくい。掲出の句も、寒さをきっかけに被災者を思いそこへ関心を集中し反芻する。その距りを、想像力の幅で見極めようとしている。なかば観念なかば実感、ゆえにリアルタイムの俳句になっている。いま、現状にも俳句にも必要なのはこういう視点だ。
 
出典:『巨石文明』(角川学芸出版2014/1/15)
評者: 堀本 吟
平成26年6月21日