勇気こそ地の塩なれや梅真白 中村草田男 評者: 松井国央

 子どもの頃の夢を見た。大きな池は一面春の日差しにキラキラと輝き、対岸の蘆原は薄緑の芽を尖らせていた。その一角に朽ち果てた小さな船着場の跡があり、幾本かの杭に横板が載せられ、夏には子供たちの格好の遊び場となる。
 そこに今、自分と同じ年恰好の少女が一人小さな赤いバケツを並べ、池の水を汲み分けて遊んでいたが、次の瞬間少女は池に落ち溺れていた。浮き沈みするうちに岸から離れているようなので、慌てて私は飛び込んで対岸の少女の所へ泳いだ。もがいている少女の手を取って船着場の杭にひきよせるつもりだったが、いきなり腕を取られ体に巻きついてきたので身動きが取れなくなった。濡れた衣服の重みもあり、共に池の底にひきこまれ、苦しさのあまり少女を振り払おうと必死になっていた。恐怖で気が遠くなりかけたとき池の底の杭に指が触れ、何とか浮上することが出来た。
 その夜、少女と両親が訪ねてきて大いに感謝をされたが、少しもうれしくなかった。私は少女を助けるというより、自分が助かりたいばかりに水の中で少女を蹴飛ばし振り払おうとしていたことを打ち明けることが出来なかった。そのうしろめたさと自責の念に堪えられず目が覚めた。夢であったことがうれしかった。今は無き明神池の思い出である。
 掲句はこのこととは何の関係もなく、作者の教え子が学徒動員として時代の渦に巻き込まれる「かどで」の際に「無言裡に書き示したもの」とある。聖書に言う信仰する者をさす「地の塩」は「他者によって生成せしめられるものでなくて自ら生成するもの、他者によって価値づけられるものではなくて自らが価値の根源であるもの」と自句自注にある。
 私自身の勇気を問いただす時、私自身の弱さを思い知った時に浮かんでくる作品となっている。
 
出典:句集「来し方行方」
評者: 松井国央
平成26年7月1日