家々や菜の花いろの燈をともし 木下夕爾 評者: 佃 悦夫

 句意は明らかである。ただ厳密にいえば<菜の花いろ>は比喩であり季語ではないが、春以外には考えられない季節の賜物である。
 <家々や>は作者の家をも含めているのだろうが、白熱電球下の卓袱台を囲んでいる家族の姿が想像されよう。その姿が<菜の花いろ>の燈下というのは仕合せ以外の何ものでもない。人生肯定の作品といえよう。
 作者の文学活動は詩作から出発している。詩の一篇一篇は長大な饒舌とは異なり、みな短い。その一篇一篇をつぶさに読んでみると、かならず季節が織り込まれている。自然というものに対し敏感な資質を元来持っていた証でもある。
 したがって俳句を自然詩と受け止めて句作を始めたことは約束されたような成り行きだったのであろう。ただ、久保田万太郎とはおよそ対照的な俳句観の持主が、その主宰誌「春燈」に入会したのは、いかなる接点があったのか。写真の風貌からの印象では端正な紳士そのもの。生来の五感は清新透明である。生きている以上は無垢で過しようがないが、自然観照という手段を充分に発揮したにちがいない。その証として、ほとんどは掲句のような対象をこまやかに観察し、定型に納めてもいる。絵本に再現可能であり、単純明解ながら、この優しさは比類なく高貴ともいえよう。映像の輪郭のたしかさは印象を強めるに効果充分である。
 詩作から出発したとはいえ、その俳句はモチーフを同じくして圧縮したものではない。そこに潔癖さを見る。大正三年生まれ(昭和四十年歿)。詩も俳句も、そのすべてに昭和時代の原風景が満天の星のようにちりばめられており、いまなお郷愁をそそられる。
 
出典:『定本木下夕爾全集』昭和四十七年牧羊社刊
評者: 佃 悦夫
平成26年8月11日