*(句は本文に) 大岡頌司 評者: 高原耕治

      そよいでは
      靜もる笹の葉に
      臼處
   
 
 おそらく、この句の読者は、この句に執着し続ける限り、三行目の「臼處」(うすど)という言葉に、終始、悩まされ続けるであろう。この言葉の意味を求めて種々の辞書や辞典を引き続けるに違いない。これは、句を〈読む〉に当たっての最も基本的な手続きである。如何なる論理を捏ね回したところで、この言葉の意味が不分明なままでは、この言葉との関連において、一行目、二行目のフレーズが宙に浮こう。しかし、である、この句は、この言葉の意味が分明でなければ、真に、理解が覚束ない作品なのであろうか。そうではあるまい。
 「臼處」とは何か。「臼處」それ自体である。造語であろうとなかろうと、「臼處」は「臼處」である。この漢字二文字の単語が指示すると覚しき意味のベクトルを、一行目、二行目のフレーズとの有機的関連において〈読〉み取ればよい。但し、その際、《改行》により一行目、二行目のフレーズを断絶し、その下部に続くそれぞれに強度の異なる《空白》は、必ず、〈読〉まれなければならない。その強度は、二行目のそれが、一行目のそれよりも遙かに上回っていよう。もちろん、三行目に「臼處」という重い謎を秘めた言葉が斡旋されているからである。仄聞するところによれば、昔日、この句が発表された時、高柳重信は、こう評したという。俳人たるもの、誰しも「臼處」を持っていなければならぬ、と。そこまで〈読〉み取れれば、もう十分ではないか。一行目、二行目のフレーズが意味するところは、人間と自然との類似的呼応関係、また同時に、この句の表現総体において「臼處」という言葉が暗に告示する威力に着眼すれば、おのずから了解できよう。決して難解な句ではないのである。
 

出典:『臼處』昭和37年3月 端溪社発行

評者: 高原耕治
平成27年4月11日