*(句は本文に) 高柳重信 評者: 高原耕治

      しづかに
       しづかに
      耳朶色の
      怒りの花よ
 
 最初に断わっておかなければならないが、表題箇所を米印で塞いであるのは、多行形式による上記の作品をその箇所に多行形式として表記できないからである。スラッシュを挿入して一行で表記した場合、それは、あくまでも、〈スラッシュを挿入した一行形式による表現〉であり、断じて多行形式による表現ではない。それは、特に、上記の作品の場合、二行目を御覧頂くと了解できるであろう。以下の多行作品二句も、横書きは致し方ないとしても、同じ米印の処置を採用させて頂く。ただ、データベースに自作の多行作品が収録されるに際して、〈一行表記スラッシュ挿入〉の許容は、多行形式に関わる者として何とも無念である。
 さて、紙幅が残り少ないので、上記の作品の評釈、鑑賞については、その核心のみを簡潔に記さざるを得ない。俳句形式史上、一行形式、多行形式の別を問わず、この句ほど、俳句形式の属性を払拭し切り、俳句形式の本質、真髄に迫った作品は、まず、皆無であろう。詩的理屈というものを感じさせない。思考過程=詩作過程ということである。これは生死一体となって多行形式に賭けた至難の業(わざ)である。そこには、《改行》の意義、即ち、言葉と、言葉の断絶と、それに続く〈空白〉との呪縛的関連が精巧、精緻に計量されている。繰り返し〈読〉めば〈読〉むほど、寂寥感と仄暗い血のにおいや囁きが、心理、情緒、感情、思考、そして身体にまで浸潤しつつ、読み手は、詩と形式の自律性に呪縛され、鎮魂されるばかりである。
 

出典:『黑彌撒』昭和31年7月 琅玕洞発行

評者: 高原耕治
平成27年4月1日