トルソー涼し抱き合う腕持たざれば 神野紗希 評者: 渡辺誠一郎
七十年代、全共闘運動が花やかりし学生時代に、〈連帯を求めて孤立を恐れず〉のスローガンをよく耳にした。詩人の谷川雁の言葉であったような気がするが定かではない。格好のいい、激越な政治的スローガンには気を付けた方がいいが、この言葉には仄かな詩情があり、印象深かった。政治の季節と言われた当時も、今ほどではないが、若い学生の圧倒的多数は、政治に無関心で、授業もほどほどにして、麻雀荘やパチンコ店に日参していたものだ。
掲句を目にしたら、この言葉を久しぶりに思い出した。
もちろん掲句は、わたくし的なものであり、〈連帯―〉は、社会的な関係性を意味するが、何故かこの二つの言葉が頭の中で重なった。しかしいずれも、他者との関係性、あるいは他者と取るべき理想の程よい距離感に触れている。特に掲句は、明快である。愛した経験があれば誰でもそんな気持ちになった一瞬の思いを、ウイットの利いた一句にまとめ上げたものだ。
人間というものは身勝手な生きものである。やはり、己の生きるリズムが乱されると生理的にも身が持たなくなることを知っている。野菜の栽培でも密植はよくない。ましてや人間をやである。人肌がいつも熱すぎるのも煩わしい。人との関係は熱いだけでは、熱が冷めれば簡単に終わってしまう。一般化する必要はないが、人間関係が長く続くための一つの考え方ではあろう。
掲句は「涼し」が効いている。
そもそも腕のないトルソーにとっては、その姿そのものが涼しい。それは、腕をもって抱き合うことができないゆえの究極の涼しさなのかもしれない。熱いものはやがては覚める。腕がないゆえに、愛は永遠なのだと言ったら言い過ぎだろうか。
さらに、掲句からは、抱き合った後に残る生々しい感触をはじめ、うずく痛みやかゆみなどを感じさせる〈幻影肢〉の働きも、影のように纏いついているのが次第に見えくるのである。
出典:『俳壇』2015年5月号
評者: 渡辺誠一郎
平成28年1月11日