くちびるを花びらとする溺死かな 曽根 毅 評者: 渡辺誠一郎

 この春、母を亡くした。九十歳を過ぎた高齢の死であった。柩の中では、久々に引かれた、真っ赤な口紅が殊の外印象深かった。母の生前の面影よりも、はるかに若く、美しくなったその姿を前に、不思議な気持ちになった。
 死は、美しい装いとして現れるものなのだ。それは生の終焉を飾るものであると同時に、先の世への再生の装いでもあるからなのだろうか。
 しかし亡母のくちびるは、一文字に結ばれて、花のように開くことはなかった。
 掲句では、〈くちびるを花びらとする〉という。
 花びらのような鮮明さが、水面から浮かび上がってくるようだ。しかし、実際であれば、溺死した者のくちびるは、やはり青白く、くすんでいるのだろうか。だが、やはり〈花びら〉からは、美しく色を放つイメージを消し去ることはできない。むしろ、その鮮明なくちびるが、艶めかしく水面を漂っている印象が、静かに浮かび上がるのである。さらに、死者の姿すら消えて、花びらだけが水面に漂っているようにすら見えてくるのだ。
 溺死そのものが、〈くちびるを花びらにする〉という、まさにシュールな世界そのものである。死、まさに滅びの美しい光景である。
 掲句を前にしていると、三谷昭の俳句、〈暗がりに檸檬うかぶは死後の景〉を思い起す。この景と掲句の景とは、どこか通底しているような世界にも思われてくる。曽根の花びらとなったくちびるは、やがて、暗転した景のなかで、浮かぶ檸檬へと結実するかのような幻想に誘われるのである。
 檸檬の実に孕んだタネは、やがて、地に漂着し、新たな生のために根を張るのだろうか。そして再び美しい花をつけるのだ。死は常に美しさの入り口に立っている。
 死者の花びらと化したくちびるは、死者自らが自らにささげる供花でもあるのだ。

出典:『花修』

評者: 渡辺誠一郎
平成28年1月1日