原爆投下予定地に哭く赤ん坊 寺井谷子 評者: 渡辺誠一郎
戦後七〇年にあたる昨年は、戦争や平和についての論議が、通常の年以上に語られることが多かった。
寺井谷子は昭和一九年生まれ。北九州の小倉に住むが、戦争経験のない世代である。現在主宰を務める「自鳴鐘」は、父の横山白虹、そして母の房子からの継承である。しかし、現在の主宰誌―「自鳴鐘」の歴史から現在を語るとすれば、「戦争」の経験は、俳誌の継承とともに記憶のなかに厚く集積していると言えるだろう。
寺井は、句集『夏至の雨』の「あとがき」に、次のように記している。
「「自鳴鐘」は昭和十二年一月、新興俳句九州の旗手と横山白虹によって北九州の地に創刊され、戦時の用紙統制令による俳誌統合を是とせず休刊。戦後二十三年六月復刊、私が四歳の夏である。復刊以後欠号も合併号も無く刊行し続けられた歩みは、私が育まれ、携ってきた歳月でもある。
戦後七十年を迎える今年五月、「自鳴鐘」は復刊八百号を迎える。
新興俳句の系譜の中、「自由」という厳しさを再認識しつつ、
俳句は一本の鞭である 白虹
という言葉を仰いでいる。」
ここには、戦前、戦中、戦後と、結社誌「自鳴鐘」が継続刊行してきたことへの感慨と、「自鳴鐘」を自らが主宰として引き受け、次の時代へ引き継ぎ、歩む覚悟が明らかである。
記憶の継承は、古い記憶のみでは不十分だ。日々変わっていく現実の中で、何が変わらないものなのか。新たな記憶、認識をいかに付加していくのかが問われるのだろうと思う。
掲載句には、〈八月九日、原爆投下目標値は当初北九州小倉であった〉との前書きが付く。
この〈原爆予定地に哭く赤ん坊〉は、寺井自身の姿とも重なる。芭蕉の「野ざらし紀行」の富士川のほとりで出会った、捨て子の姿を想起させ、命のありようへの深い思いを感じないわけにはいかない。さらに、寺井が抱える生の原点を、改めて自らのものとして捉え、歴史の痛みを共有し続けるその姿に強く共感する。同時にそれは、寺井自身の表現の原点を確認することでもあるのだ。
掲句はまさに、新たな心境へと歩もうとする寺井の覚悟の一句なのである。
出典:『夏至の雨』平成二七年刊
評者: 渡辺誠一郎
平成28年1月21日