五月雨の降のこしてや光堂 芭蕉 評者: 髙野公一

 「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。」に始まる『おくのほそ道』平泉の章の最後に置かれた一句である。それはこの章段を完結させるばかりでなく、『おくのほそ道』という文学空間の最初の大きな句読点にもなっている。
 この句は、曾良の『書留』に記載なく、真蹟もなく、また弟子たちの言及もない。姿を現すのは曾良本『おくのほそ道』である。それにはこの句の初案の「五月雨や年々降て五百度」が記されていて、「降りて」が「降るも」と再考され、最後に現在の句形に書き直されている。
 原案の「五百たび」は、奥州藤原滅亡から五百年、さらに、藤原氏とゆかりのあった西行五百年忌を踏まえている「五百」であろう。山本健吉は「この初案は拙劣なだけに発想の動機を露骨にしめしている」と言っている。その通りである。しかし、そこから最終の句形への飛躍に驚かされる。
 曾良の『書留』には別のところに「早苗にも我色黒き日数哉」の芭蕉の句が記されている。前書きに「いまの白河も越えぬ」とある。早苗の青々とした色をみるにつけても、旅日焼けして色黒くなった旅の日数が思われる、というもので、明らかに『古今著聞集』の能因法師の話を意識している。霞と共に都を立ったが、白河ではいつか秋風が吹く、その「旅の日数」である。
 この句の発想も先の「五百たび」の句と同様「発想の動機を露骨にしめしている」と云える。この句は結局「西か東か先早苗にも風の音」に直したと『書留』に書き残されている。そして、それも芭蕉の中では満足を得なかったのだろう。
 芭蕉という人でも、概念的で理の勝った「心おもく、句きれいならず」のような句を書いてしまうことがあった。弟子たちにしきりに「かるみ」を説いていた、正にその時期に、こういう句を書いている。そのことに驚きながらも、そこから案じ尽くして「五月雨の降のこしてや」のような秀吟に到達した、その執念こそ学ぶべきことのように思われる。芭蕉の書き直し癖は尋常ではない。『おくのほそ道』の作品でもそれは顕著であった。

 出典:『おくのほそ道』岩波文庫

評者: 髙野公一
平成28年3月11日